「直家のお菊への『偽りの囁き』」
障子越しに差し込む陽光が、飴色に濁り始めている。
刻一刻と、夕闇が迫っていた。
他国の密偵が動くまでの猶予は、わずか。
この手紙が中山信正の元へ届くのが遅れれば、すべてが水泡に帰す。私の心臓は、刻まれる時計の針のようにせわしなく脈を打っていた。
部屋の奥から、直家の柔らかな声が漏れ聞こえてくる。
「……お菊。父上へ、私の本心をしたためてはくれぬか」
「はい、直家様。……喜んで」
お菊の弾むような声が、私を苛む。
彼女は、これから自分が筆を走らせる内容が、父を墓場へと誘う招待状であることなど、夢にも思っていないのだ。
私は襖をわずかに開け、その光景を覗き見た。
直家は、お菊の背後に優しく寄り添っている。その所作は、新婚の夫そのものだ。
世の誰もが疑わぬ、愛に満ちた夫婦の団欒。
だが、私の位置からは、直家の顔が隠れて見えない。
いや、見えずとも分かる。彼が今、どのような表情で、その『餌』を仕上げているのか。
「父上は、直家様の和解を心待ちにしておいでです。これで、ようやく……」
お菊が目元を潤ませ、筆を硯に浸す。
サラサラと、和紙の上を筆が滑る心地よい音が、室内に響く。
その音は、死を招く旋律のように私の耳に刺さった。
お菊が書き上げた文は、情に溢れていた。
夫と父が手を取り合い、平和な領国を築くことを夢見る、娘の無垢な願いがそこには綴られている。
「……できたわ、直家様」
お菊は手紙を捧げ持ち、満面の笑みで振り返った。
その瞳に映る直家は、彼女にとっての唯一の光であり、神聖な夫なのだろう。
彼女が差し出した手紙を受け取る直家の手は、震えひとつない。
「ありがとう、お菊。……お前の誠意は、必ず父上にも届く」
直家はそう言って、お菊の頬を慈しむように撫でた。
その瞬間だった。
お菊が恥じらいに顔を赤らめ、直家の胸に顔を埋めた。
私の死角で、直家が顔を上げた。
抱きしめているのは愛妻のはずなのに、その眼差しには、温度など欠片も宿っていない。
そこにあるのは、獲物を仕留めたあとの、死に絶えた深い沼のような空虚さだけだった。
お菊の幸せそうな啜り泣く声が、障子越しに響く。
直家の口元が、わずかに吊り上がる。
それは、勝利を確信した者の、おぞましい笑みだった。
庭の木々が風に揺れ、その影が障子の上で黒々と蠢く。
形を変え続ける影のように、私たちの関係もまた、取り返しのつかない深淵へと歪んでいく。
私は静かに障子を閉め、この毒の手紙を中山家へと届けるため、闇の中へと駆け出した。
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