「謀略宣告と秀安の倫理的恐怖」
陣幕に吹き込む夜風は、どこか鉄の錆びたような臭いを孕んでいる。
直家から沼城の「同時調伏」計画を告げられた秀安は、顔色を失い、喉を激しく上下させていた。
彼が握りしめた拳のひらには、冷や汗がじっとりと染み出しているのが、影から見ても分かった。
「……騙し討ち、ですか」
秀安の声は、震えていた。
怒りか、あるいは恐怖か。その両方が入り混じったような、不安定な響きだった。
「中山信正殿は、直家様にとっても義父上にあたる方。お菊殿の父君を、祝いの宴で……そのような真似、武門の恥にございます!」
秀安は、正義という名の鎧を纏っている。
その鎧は、戦場では燦然と輝く誇りだが、この男が統べる盤上では、ただの重荷に過ぎない。
直家は、そんな秀安を静かな眼差しで見つめていた。
彼の中には、憤怒もなければ、説得しようという熱量もない。ただ、答えを待つだけの機械的な冷静さがそこにある。
「恥、か」
直家の言葉は、平坦に空間を滑っていく。
「ならば秀安よ。お前が正々堂々と戦い、我が宇喜多の足軽を数百人ほど死なせる。それと、お前一人が卑怯者の汚名を被り、一兵の損耗もなく沼城を奪う。どちらが、宇喜多という家の生存にとって『正解』か」
「それは……しかし、道理というものが……!」
「道理などというものは、生き残った者が後から描き足す絵空事に過ぎぬ」
直家は、畳の上に置かれた地図を指先で軽く叩いた。
コン、と乾いた音が、静まり返った部屋に響く。
「答えろ。お前のその清廉な両手と、数百の足軽の命、どちらが重い」
秀安は言葉に詰まった。
喉が渇ききっているのか、彼は顎を何度も動かし、空気を咀嚼するようにして息を吐く。
彼の理想は、直家の突きつける「生存の計算」の前で、砂の城のように脆くも崩れ去ろうとしていた。
汚名を背負って死ぬか、友を殺して生きるか。
直家は、そんな選択肢を突きつけることで、秀安の心臓にある「正義」という杭を、ゆっくりと、しかし確実に引き抜こうとしているのだ。
私は、影の中でただその光景を眺めていた。
この瞬間、秀安という一人の若き武将の魂は、終わった。
彼は直家の論理の前に屈服し、自分の意志で人を殺す「道具」へと堕ちることを強制されている。
やがて、秀安はゆっくりと膝を突き、その場に崩れ落ちた。
瞳から光が消え、ただ虚ろな、しかしどこか諦念の混じった表情で床を見つめている。
「……承知、いたしました」
絞り出された声は、ひどく掠れていた。
直家は満足げに頷くと、何事もなかったかのように行灯の芯をいじり始めた。
そこには、残酷な勝利を収めたという余韻すらない。ただ、次の手順を考えるだけの無機質な時間が流れている。
私はふと、陣幕の隙間から外を見やった。
遠くの枯れ木から、一羽の烏が飛び立った。
夕闇が迫る空へ向かって、その翼を力強く打ち付けながら、次第にその黒い影は小さくなっていく。
最後には、羽音だけを夜空に残し、烏は闇の彼方へと消えた。
秀安の魂もまた、その烏のようにどこか遠い場所へ去ってしまったのだ。
私たちは、引き返せない場所へと、また一歩深く踏み込んでいた。
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