「お菊による中山信正の説得」
長雨が続く季節だった。
軒先から滴り落ちる雨音が、このところ絶え間なく続いている。
お菊が書いた文は、早馬によって中山信正の元へと運ばれた。
彼女は、それが父の死刑執行書であるとは夢にも思わず、夫との和解という未来を信じて、懸命に言葉を綴っていたのだ。
私と直家は、返書が届くのを待った。
この数日は、まるで底なしの沼に沈んでいくような、生温かく重苦しい時間だった。
やがて、早馬が戻った。
中山信正からの返書が届いたのだ。
お菊は、その文を大切そうに両手で抱え、直家の元へと駆け寄った。
「直家様、父上からのお返事にございます。……やはり、父上も私と同じ想いでいらっしゃいました」
お菊の瞳は、これ以上ないほどに輝いている。
沼城での酒宴に応じる、という快諾。
娘の願いに応え、婿との和解を祝うという、父としての慈愛に満ちた決断。
彼女にとって、それは平和への第一歩だった。
直家は、お菊から文を受け取ると、ゆっくりと目を通した。
その表情には、勝利の歓喜も、あるいは罪悪感という名の影も一片たりとも宿っていない。
ただ、淡々と情報の重要度を整理する、冷徹な算盤の珠を弾く音だけが、彼の脳内で響いているようだった。
「……そうか。義父上も、納得されたか」
直家が短く呟く。
お菊は安堵のあまり、その場でへなへなと座り込んだ。
張り詰めていた糸が切れ、安心と喜びが入り混じった涙が、彼女の頬を伝う。
私はその光景を、あえて見ないようにした。
彼女の善意が、父を死地へと招き入れる。
信正が沼城の門をくぐることは、即ち、屠殺場へと足を踏み入れることに他ならない。
お菊が流す涙は、父の血よりも重い意味を持ってしまっているのだ。
その時、直家が手元の文を、何の躊躇もなく行灯の炎にかざした。
パチ、パチ、と墨の匂いを漂わせながら、紙が端から黒く焦げ、やがて炎に呑まれていく。
中山信正という男が、最後に娘へ送った温かな言葉の数々が、瞬く間に灰へと変えられていく。
直家は燃え尽きた灰を見つめ、低く、独り言のように言った。
「……これで、沼城の門は開いた」
その声は、あまりにも静かだった。
部屋を出ると、軒先では雨宿りをする数羽の雀が、寄り添うように羽繕いをしていた。
彼女たちは、明日には死が訪れることも知らず、ただ冷たい雨をやり過ごすことに懸命だ。
私たちは、その雀の横を通り過ぎた。
雨は止む気配を見せない。
この濡れた泥の中に、私たちはこれから、取り返しのつかないほどの血を流し込むことになる。
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