「お菊への『最初の毒』」
乙子城の一室に、甘く香ばしい茶の香りが漂っていた。
質素な生活の中でも、お菊が点てた茶には、どこか柔らかな温もりがある。
庭先には、冬を前にして山茶花が鮮やかな赤を咲かせていた。
窓から差し込む陽光が、その花弁を透かしている。
お菊は、夫である直家の傍らに跪き、慎ましやかな手つきで茶碗を差し出した。
その瞳には、この先の茨の道など微塵も疑わぬ、透き通った信頼だけが宿っている。
「直家様、少しは身体が温まりましたか」
お菊の問いかけに、直家はいつもの無機質な顔を崩し、珍しく柔らかな微笑みを浮かべた。
それは、ただの不器用な若領主の、妻を愛おしむ夫の顔に他ならない。
私は、襖の陰でその様子を眺めていた。
胸の奥が、冷たい泥を飲み込んだように重くなる。
直家は、お菊の肩に手を乗せ、優しく引き寄せた。
その所作には、一切の躊躇がない。完璧な演技だ。
だが、私の位置からは見えた。
お菊の背越しに、直家がこちらへ向けた、その眼差しが。
——そこには、微塵の情もなかった。
温かな微笑みとは裏腹に、直家の瞳は、底知れぬ深淵のように冷え切っている。
彼は私に対し、口を動かさず、ただ視線だけで急かしていた。
早く、中山信正を釣るための工作を終わらせろ、と。
お菊は気づいていない。
今、自分が愛おしく抱き寄せられているその腕が、自分の一族を根絶やしにするための計略を練る、冷酷な武器であることを。
この優しさは、毒である。
夫として、妻を愛する心さえも、彼は信正を欺くための餌として、丁寧に丹念に塗り上げているのだ。
お菊が幸せそうに目を細める。
その無垢な善意こそが、直家の巨大な演算の第一歩として、もっとも効率よく消費されていく。
私は静かに頭を下げ、その場を離れた。
部屋を出ると、庭石の窪みに溜まった前夜の雨水が目に映った。
ちぎれた雲が、水面をゆっくりと流れていく。
直家の抱擁の裏で、お菊という美しい花が、音もなく摘み取られようとしていた。
私はその毒の運び手として、暗い廊下を歩き出した。
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