「自壊する松田の防壁」
降り続く雨は、金川城の石垣を湿らせ、その城内に巣食う疑心暗鬼を、より深く、より黒く染め上げていた。
沼城の執務室まで届く報告は、もはや戦の戦果というよりも、屠殺場の記録のようだった。
「……また一人、処分されました」
忍びの言葉は、淡々としている。感情を削ぎ落とさねば、直家の前で報告などできないからだ。
「松田家の重臣、伊賀久隆殿。……『裏切り者の名簿』に名を連ねていたという理由だけで、元輝公の命により、その場で首を刎ねられたとのことです」
その報告を聞いた直家は、古びた地図の上で、松田領を示す区画を指先でなぞった。
伊賀久隆といえば、松田家において剛直で知られた名将だ。彼を失うことは、松田家にとって右腕を自ら切り落とすに等しい。
「……元輝は、己の手を汚すことに躊躇がなくなったか」
直家の声には、驚きもなければ、嘲笑もない。
ただ、予想通りの答えが返ってきた、という安堵に近い響きがあるだけだ。
「……あわや、城内で一揆が起きる寸前の騒ぎとなっております。伊賀殿の配下の兵たちは、あまりの仕打ちに憤り、元輝公を敵視し始めております」
直家は、ようやく顔を上げた。
窓の外、激しく打ち付ける雨を見つめるその瞳は、青白く、静かに燃えている。
「組織とは、強固な防壁だ。だが、その内側を一度『疑い』という蟻が食い始めれば、外敵の刃など不要になる。……自重で崩れる塔を、誰が支えられる?」
彼は立ち上がり、部屋の隅に置かれた水瓶の水を、小さな杯に注いだ。
水面に映る自分の顔を眺めながら、直家は独り言のように呟く。
「元輝は、正義を信じている。自分が『正しさ』を守るために、身内を斬っているのだと思い込んでいる。……その傲慢さが、あいつを地獄の淵まで引きずり込む」
私は、その言葉の鋭利さに背筋が凍る思いだった。
直家が撒いた偽の密書。たった数枚の紙切れが、松田家という巨大な組織の根幹を腐らせた。
彼は、血を流す必要すらなかった。敵の「恐怖」という感情をコントロールし、己の手で自滅させるように誘導しただけだ。
それが直家の「戦争」である。
刀を振るうことなど、野蛮人の行いだとでも言うように。
「職家」
直家が私を呼ぶ。
「これで、松田家の防壁は消えた。……次は、最後の仕上げだ」
「……仕上げ、とは」
「城門を開かせる」
直家はふっと笑った。
その笑みには、獲物を追い詰めた猟犬が、いよいよ喉笛に牙を立てる直前の、残虐な高揚感が滲んでいる。
「城内の人間が、誰も元輝を信じられなくなったとき、彼らは誰にすがると思う?」
私は、その問いの意味を理解し、言葉を失った。
疑心暗鬼に陥った人間が、最後に求めるのは、「絶対的な強者」による支配ではない。自分たちの不安を払拭してくれる、外側からの救い——つまり、敵であるはずの「宇喜多」の手だ。
「……私たちは、松田の救済者として、城内へ招かれる、と」
「そうだ。……戦わずして、城を乗っ取る」
直家は、手に持っていた杯の水を、床へと静かに撒いた。
その雫は、瞬く間に床板の隙間へと吸い込まれ、消えていく。
金川城の方角から、雨音が強まっている。
それは、崩れ去る松田家の断末魔の咆哮のように聞こえた。
私たちは、すでに戦場にいない。
私たちは、ただの観測者となり、敵が自ら墓穴を掘るのを、静かに、そして確実に待っているのだ。
備前の地は、雨に濡れ、静かに、そして確実に、塗り替えられようとしている。
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