「亀裂の音と、凍りつく忠義」
金川城から報告が届くまで、時間はひどく粘り強く、退屈な速度で過ぎていった。
沼城の執務室には、ただ墨を擦る音と、時折窓を叩く風の音だけが満ちている。
直家は、相変わらず地図の前に座り、まるで駒を配置し終えた盤面を眺めるような、静かな眼差しを向けていた。
数日後。
宇喜多の忍びが、泥にまみれて執務室へと滑り込んできた。
「……金川城内にて、激しい論争が起きております」
忍びの声は、呼吸を整える間もなく、焦燥に駆られていた。
「松田元輝公が、重臣のひとりを密かに詰問し、そのまま投獄したとのこと。……『宇喜多と通じているのではないか』との疑念が、城内で急速に広がっております」
その報告を聞いても、直家は眉一つ動かさなかった。
ただ、手元の筆をゆっくりと置き、忍びの方を向いた。
「元輝はどうした?」
「……城門を閉ざし、家臣団の立ち入りを厳しく制限しております。身内をも疑い、もはや誰の言葉にも耳を貸さぬ様子……」
「そうか」
直家は、短くそれだけを呟いた。
そこに、勝利の昂揚感はない。あるのは、自分が仕掛けた方程式が、正確に答えを導き出したことへの、冷ややかな納得だけだった。
「職家」
直家が私を呼ぶ。
「人の『誇り』とは、かくも脆いものだ。守ろうとすればするほど、それは鋭利な刃となり、自分自身を傷つける」
直家は立ち上がり、窓の外、金川城のある方角を見つめた。
そこには、かつては盤石だったはずの組織が、自らの疑心暗鬼によって軋み、砕け散る前兆が漂っている。
「元輝は、己の正しさを信じている。だが、疑い始めたその瞬間から、彼は『自分以外のすべて』を敵と見なすことになる。……組織とは、長が誰を信じるかで形が決まる。誰も信じられなくなった組織に、留まる人間などいない」
私は、その言葉の恐ろしさに戦慄した。
彼は、武器を取る必要すら感じていない。
ただ、「疑う」という種を一つ落とすだけで、敵は勝手に自分たちの首を絞め、孤立し、自壊していく。
それが、直家の「戦争」なのだ。
「次は、さらに追い打ちをかける」
直家は静かに笑った。
それは、獲物を追い詰めた猟犬が、いよいよ喉笛を狙う直前の静寂に似ていた。
「……具体的には」
「松田の家臣団へ、偽の密書をばら撒け。『裏切り者の名簿』と称して、何人かの家臣の名前を適当に並べたものをな。……それだけで、城内は地獄の煮っ転がしだ」
あまりにも、卑劣で、確実な一手だった。
戦う前に、敵はすでに壊死し始めている。
「……承知いたしました」
私は頭を垂れた。
直家の背中には、以前よりもさらに色濃く、黒い影が纏わりついているように見える。
私たちは金川城へ向けて、新たな「毒」を放った。
これによって、どれほどの絆が引き裂かれ、どれほどの疑心暗鬼が城内を蹂躙するのか。
金川城から吹き下ろす風は、もはや鉄の味すら通り越し、腐敗した肉の臭いを漂わせている気がした。
備前の地で、見えない亀裂が音を立てて広がっていく。
それを耳にする者は誰もいないが、私たちは確かに、その破滅の予兆を聞いていた。
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