「松田の綻びと、毒の囁き」
沼城の執務室に滞留するのは、湿った冷気と、書き損じられた墨の臭いだ。
直家は、届いたばかりの密書を指先で弄んでいる。
金川城に鎮座する松田元輝。彼をどう崩すか。
直家が描いているのは、城攻めのような荒々しい図面ではない。まるで繊細な彫金でもするように、敵の内部に亀裂を入れる図面だ。
「職家、松田の家臣団には二つの派閥がある」
直家は、筆を置いて私を見た。
その瞳は、獲物を前にした獣というよりも、緻密な計算式を解く数学者のように冷めきっている。
「誇りを重んじる保守派と、現状の窮乏に不満を抱く新興勢力。松田元輝は前者だ。……そこが、あいつらの命取りになる」
直家は立ち上がり、窓の外、松田領の方角を指差した。
そこには何もない。ただ、視界の及ばない彼方の地平があるだけだ。
「奴らに『疑心』という名の種を蒔く。……松田の重臣たちが、我ら宇喜多と密かに通じているという噂をな」
私は、その言葉の意味を瞬時に理解した。
暗殺や襲撃ではない。情報の毒。
互いの信頼を、己の疑心暗鬼で食い破らせる。それが直家の流儀だ。
「……具体的には、どう動きますか」
「松田の家臣の名を記した偽の書状を、わざと検問に引っかかる密使に持たせろ。内容は『宇喜多への寝返りを画策』という単純なものだ」
直家は淡々と言う。まるで天気を予想するように。
「元輝の性格ならば、その書状を見た瞬間、自身の身辺すべてを敵視するはずだ。身内を疑い、忠義を試す。……そうして内側から軋み始めた組織は、最後には自重で崩壊する」
それはあまりにも、卑劣で、確実な一手だった。
戦う前に、敵はすでに死んでいる。
「……承知いたしました」
私は深く頭を下げた。
その時、私の手の中で、ふと直家がかつて言った言葉が蘇った。
——この地獄の果てに、何があるか。
私は、彼が撒く種が、どれほどの血を吸って育つのかを想像する。
疑心に塗れた金川城で、どれほどの首が落ち、どれほどの涙が流れるのか。
「職家」
直家が私を呼んだ。
その背中には、やはり黒い影が濃く纏わりついている。
「お前も、いずれは私のことを疑うようになるかもしれぬな」
直家は振り返らず、そう言った。
冗談ではない。彼なりの、孤独な宣言だった。
「……直家様が、私の信頼を裏切らない限り、その日は来ませぬ」
私の返答に、直家はふっと鼻で笑った。
「そうか。ならば、その日が来るまで、私の影を拭き続けていろ」
直家は再び地図へ目を落とした。
松田の家臣の名が、次々と指先でなぞられていく。
金川城の方角から、夜風が吹き込んできた。
湿ったその風は、どこか鉄の味——血の味がした。
毒は、もうすでに、備前の地へ静かに広がり始めている。
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