「沼城の残響と、血の朝」
戦火など、もとよりなかったかのような朝だった。
沼城の門は、音もなく開かれた。
昨日まで威勢よく宇喜多の侵攻を罵っていた者たちが、城門の前にうずくまり、泥に額を擦り付けている。
彼らは皆、震えていた。
その震えは、昨夜の宴で宴席を血で染め上げられた恐怖によるものではない。自分たちの「主」が、もはやこの世のどこにも存在しないという事実を知り、その帰属先を失った羊の群れが抱く、本能的な不安だった。
私は、直家の背後でその光景を見下ろしていた。
降伏の誓詞を捧げる敵の重臣たち。彼らの視線は、直家の顔ではなく、その背後に控える死の匂いに怯えている。
あの一夜にして、中山信正と島村盛実という巨大な頭脳が消えた。宇喜多にとっての障壁は、暴力ではなく、計算によって除去された。
直家は、何も語らない。
ただ、その静かな存在感だけで、彼らに「これからは宇喜多の民として生きるか、さもなくば死ぬか」という選択を無言のうちに強いている。
戦わずして勝つ。いえ、戦うべき相手を消し去ることで、戦そのものを無意味化する。
それが、直家の「生存の理」の、圧倒的な帰結だった。
城下の外れでは、農民たちが戦の結末など知らぬ顔で、朝の野良仕事に向かっている。
鍬を振るう音、畦道を歩く足音。
この圧倒的な日常の営みが、直家が切り捨ててきた無数の命の重さと対比をなし、私の胸を深く冷やした。
昼前、私はお菊の亡骸を弔うため、城の裏手の小高い丘へと向かった。
昨夜の冷たい雨は止み、今は雲の切れ間から、容赦のない陽光が降り注いでいる。
掘ったばかりの土の匂い。
そこへ小さな花を供え、私は静かに手を合わせた。
彼女の魂が、どこへ行ったのかは分からない。ただ、この地獄を生み出した男のそばにいる限り、安息など望むべくもないことだけは確かだった。
背後で、枯れ葉を踏む足音がした。
振り返ると、直家が立っていた。
その背中には、朝日の影が長く伸びている。昨夜の惨劇の疲れなど、微塵も感じさせない、相変わらずの無機質な立ち姿だった。
「職家」
直家の声が、静寂の中に落ちる。
「中山の娘は、我らが必要とした『燃料』だ。……その価値を忘れるな」
私は、お菊の墓標から立ち上がり、直家に向き直った。
彼が何を言わんとしているか、分かっていた。
犠牲を、犠牲で終わらせるな。それを糧に、宇喜多を燃やせ。
「……承知いたしました」
直家は、私の返事を聞くと、ふと空を見上げた。
眩しすぎるほどの陽光が、彼の瞳を細めさせる。
「呪いは、私の背に刻まれた」
直家が、自分自身の背中を指でなぞるような仕草をした。
その細い背中は、今にも折れてしまいそうなほど華奢に見える。だが、その中には、この国の命運を握りつぶせるほどの重圧が凝縮されているのだ。
「お前は、その背を拭き続けろ。……地獄の果てまで、な」
それは命令ではない。
呪いの共有であり、生涯をかけた盟約だった。
私は直家の背中を見つめる。
ああ、この男の背中には、彼が切り捨ててきた無数の人々の叫びが、呪いのように張り付いている。それを拭い去ることはできない。だが、その苦しみとともに、彼を地獄の深淵まで運び続けることなら、私にはできる。
「……それが、私の役割にございます」
私の言葉に、直家は満足げに、しかしひどく虚無的な笑みを浮かべた。
私たちは、沼城の石垣の隙間に咲く、小さな名もなき野花を見下ろした。
朝の微風に揺れるそれは、あまりにも弱々しく、しかし確かにそこに生きていた。
私たちは、その弱さを踏みつぶしながら、それでも前へ進むしかない。
背中を並べ、私たちは朝の光の中へと歩み出した。
私の瞳には、直家の背中にこびりついた「呪いの黒」が、陽光の下でより一層、濃く焼き付いていた。
私たちの地獄は、まだ始まったばかりなのだ。
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