「直家の『生存の計算書』」
東の空から差し込む朝日は、すでに沼城の井戸端を冷徹な光で満たしていた。
秀安は、なおも膝を折ったまま、泥と血に濡れた己の両手を見つめている。
彼の瞳から、武士としての誇りも、若き日の正義感も、すべてがこぼれ落ちていた。
その空っぽになった器の中に、直家は冷酷な事実を注ぎ込もうとしている。
「秀安」
直家の声は、風もないのに背筋を凍らせるほどに平坦だった。
「その、血に汚れたお前の両手。……そして、この戦で死なずに済んだ、数百の足軽たちの命。どちらが重い」
秀安が、喉を鳴らした。
水で洗おうと何度も擦ったはずのその手は、朝日を浴びて、なおのこと赤黒く、醜く映る。
「……答えるまでもないな」
直家は、秀安の肩にそっと手を置いた。
その所作には、慈しみも同情もない。ただ、道具の不具合を確認し、位置を正す職人のような、機械的な手つきだった。
「お前の手が汚れたことで、宇喜多の兵たちは明日も米を食い、家族の下へ帰る。お前が潔癖を貫けば、彼らはこの沼城の土と化していた。……これは、どちらが『善』なのだ?」
「……あ、あぁ……」
秀安の唇から、形にならない呻きが漏れる。
彼は直家の論理から逃げられない。
もし彼が「殺人は悪だ」と叫べば、それはすなわち「数百の足軽を見殺しにすべきだった」という呪詛を吐くことに他ならないからだ。
直家は、秀安の絶望を肴にするようなことはしない。
ただ、この世の理不尽を、淡々と突きつけるだけだ。
「この世は、天秤だ。何かを犠牲にせねば、何かを守ることはできぬ。お前は今日、その秤の重さを知った。それが、武将として生きるということだ」
直家の指先が、秀安の血に汚れた手を指し示す。
「その汚れは、我が家門を存続させるための『差引き』だ。誇れとは言わぬ。だが、その痛みを忘れるな。それが、お前がこれから宇喜多のために背負うべき、唯一の誇りとなる」
私は、朝の冷気の中でその光景を見つめていた。
直家は、秀安の倫理を破壊し、その破片を拾い集めて、より強固な宇喜多の駒として再構築したのだ。
秀安という男は、もう二度と、夜空を見上げて清廉な正義を語ることはないだろう。
彼は、血の味を知り、算盤の珠として生きる運命を、その身に刻み込んだのだ。
直家がゆっくりと歩き出す。
その背中には、彼が切り捨ててきた無数の命の重さが、呪いのように張り付いているはずなのに。
ふと、朝焼けに染まりゆく空の片隅で、一筋の流れ星が音もなく滑り落ちていった。
夜明けの光に呑まれ、瞬く間に消えゆくその軌跡は、今の秀安の命のようだった。
私たちは、すでに人間としての輪郭を失っている。
直家の「生存の計算書」には、すでに私たちの魂までもが、数字として書き込まれているのだ。
秀安がゆっくりと立ち上がる。
その足取りは、先ほどまでの迷いとは違う、重く沈んだものだった。
彼はもう、直家の影から逃れることはできない。
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