「夜明けの嘔吐と直家の影」
東の空が白みきり、朝の冷たい光が沼城の庭を無慈悲に照らし出していた。
宴の騒乱は終わり、広間から聞こえていた阿鼻叫喚も止んだ。
代わりにあるのは、兵たちの「勝った」という安堵混じりの囁き声と、井戸端から響く不吉な水音だけだ。
私は、朝の光にさらされぬよう、本丸の回廊の影からその光景をじっと見つめていた。
秀安が、井戸の縁に手をつき、必死に水を汲み上げている。
彼の両手は、お菊とお福、そして多くの命を奪った返り血でどす黒く染まっていた。
何度水をかけても、爪の間にこびりついた赤黒い染みは、朝の光を弾くように、なかなか落ちようとしない。
ヒュッ、ヒュッ。
彼の喉の奥から、鋭い空気が漏れる。
水で洗うというよりは、皮膚を削ぎ落とそうとするかのような必死さだった。
だが、どれほど洗っても、彼がその身に纏った「人殺し」という汚名は、消えることはない。
秀安の肩が激しく揺れる。
こみ上げる胃酸の臭いが、手の甲に残る血の匂いと混ざり合い、朝の清々しい空気に漂ってくる。
彼は井戸の縁に顔を伏せ、激しく嘔吐を繰り返していた。
かつての若武者の面影は、もうどこにもない。
彼が今吐き出しているのは、胃の内容物だけではない。彼が信じてきた「武士としての誇り」や「清廉な正義」といった、魂の核そのものだ。
私は、その惨めな光景を冷ややかな目で見ていた。
直家の「生存の理」を完遂するためには、誰かがその汚泥を被らねばならない。
秀安はその役割を、他ならぬ自分の手で行ってしまったのだ。彼が味わっている苦渋は、私たちがこの地獄を生き抜くための、必然の対価に過ぎない。
不意に、背後の闇から、足音が近づいてきた。
音もなく、気配もなく。
まるで朝の光を拒絶するかのような、静かな足取りだった。
秀安は気配に気づき、動きを止めた。
彼は顔を上げ、濡れた手で口元を拭うと、恐る恐る振り返った。
そこに立っていたのは、直家だった。
昇り始めたばかりの太陽を背に受け、その長い影を井戸端まで黒々と伸ばしている。
直家の表情は、逆光に溶け込んでよく見えない。ただ、その静かな立ち姿が、今の秀安にとって、この世で最も恐ろしい断罪者の姿として映っていることは明白だった。
秀安が、よろめきながら膝をつく。
その身体は、寒さではなく、直家の放つ圧倒的な「生存」の重圧に震えていた。
井戸の傍らに生えた名もなき雑草が、夜露に濡れて鈍い光を放っている。
その光を見つめながら、私は思った。
この光の中にあっても、私たちはもう、人間としての輪郭を保てなくなっているのだと。
直家が、一歩、また一歩と秀安に歩み寄る。
その歩調には、迷いなど一片もなかった。
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