空から
商業都市グルニアラの喧騒から離れた屋敷の一室。
病床に臥すベルクラウス商会の大旦那、ユーノスの父は、窓の外をぼんやりと見つめていた。
広々とした庭先には大量の玉砂利が敷かれ、飾りとなる樹が置かれている。
まるで川の流れを思い起こさせるような綺麗な配置は、その昔に彼が東方の国で見た造園を真似たものである。
命は循環し、永遠である。
たしか彼の地では、そのように言っていたか。この庭の形も、流れと循環を意味しているとかなんとか。
死を前にして、弱気になっている自分を自覚していた。
こんな庭で癒されてしまう自分に、老いを感じる。
「ユーノスは、まだ帰って来ぬのか」
大旦那はベッドから上体を起こすと、傍らの番頭に聞くでもなく呟いた。
「はい大旦那さま、まだ連絡もございません」
「そうか……」
大旦那の声には隠しきれない失望が滲んでいた。
厳格な商人の顔をした裏で、息子への期待と焦りが、彼の胸を締め付ける。商会を継がせるための条件として課した「俺を唸らせる仕入れ」、あの課題、果たしてユーノスには荷が重すぎたのだろうか。
「……これまで数多の絶品を見て来た大旦那様を唸らせるもの。難しい注文です。私にはとても思いつく自信などございません」
大旦那の心を読んだのか、番頭が神妙な面持ちで首を振った。
「ユーノスさまの商才は本物だと私は思います。それでもご苦労なさっておられるのでしょうな」
遠慮がちに言うのは、番頭が大旦那の気持ちをわかっているからだ。
自分の子には大成して欲しい。自分を超えて欲しい。その姿を見たい、死神の手が自分の肩を完全に掴むその前に、立派な息子だと心の底から胸を張らせて欲しい。
詰まるところ、大旦那の願いはそれだけだったのだ。
……大旦那は番頭に答えずに目を閉じた。
厳しくしたのは、息子を鍛えるためだった。だが、それはそれとして、最近は心配事が彼の心によぎる。息子は――ユーノスは果たして間に合ってくれるのか。
息子の笑顔を見たい自分が居る。
息子の声を聴きたいだけのの自分が居る。
息子と一緒に笑いながら話したいだけの自分が居る。ああ、だが。
そんなものは埋めてしまえ。
息子に俺を超えさせる為に、俺の全てを使え。ユーノスを信じろ。
黙っている大旦那を残して番頭が退出すると、静寂が部屋を満たす。
水を飲もう。と、コップに伸ばす手が震えていた。ああ俺は弱まっている。そう実感した瞬間に、彼の脳裏に幼い頃のユーノスの姿が浮かんだ。
幼いユーノスは、いつも市場の片隅で俺の商売を見つめていたっけ。
そして、キラキラしたあの目で言う「父上みたいに、皆を幸せにする商人に俺もなりたい!」。根が優しい子だったから、商売上で随分と叱った。商売は決して慈善事業ではないのだ、と。
ああ。どれもこれも懐かしい記憶だ。優しくて幸せな記憶。彼は自分の口元が緩んでいることに気がつかない。
しばらく幸せに呆けたあと、大旦那は顔を曇らせた。
あの子に課した課題は、難しすぎたのだろうか。番頭は言っていた、自分では想像もつかない、と。わしをどう唸らせるか、言われてみれば自分でも、今の自分がなにを見たら唸るのか、想像できなかった。
残り少ない命で、俺はユーノスの覚悟を見届けることが叶うのだろうか。
否、と考えるのは恐怖でしかなかった。だから、俺は息子を信じて少しでも長く生きなくてはならない。
――と、その時。
突然に、屋敷の中が暗くなった。……いや? これは屋敷の中だけではないな、外が、暗くなっている。窓の外から見る中庭にも影が差していた。まるで巨大な影が一面に落ちたような。
「……なんだというのだ」
急に大雨でも降るというのだろうか。夏はたまにそういうことがある。
などと大旦那が思惑していると。
「ユ、ユーノスさまが戻りました!」
慌てた番頭が飛び込んできた。
ドキンと、胸が躍る。と、同時に青ざめた番頭の顔に違和感を覚えた彼だ。
「どうした? なぜにそんな慌てておる」
「そ、それが……!」
番頭は落ち着こうとしたのだろう、言葉を一度切り、大きく息を吸った。
大旦那は笑いかけた。こうも慌てられると、こちらはどんどん冷静になってくる。要準備になるというものだ。
「中庭を、ご覧ください」
促され、窓から見てみる。そこには影が差していた。
「こちらから……どうぞ」
中庭に向かった大きな戸を、番頭が開いた。突然強風が部屋へと吹きこんできた。
木々が大きく揺れている。――なんだこれは?
冷静であったはずの大旦那の心が一気に乱れる。好奇心に駆られるまま彼はベッドから立ち上がると、部屋の中から中庭へと降り立った。
「なん……だ、あれは……!」
そこで大旦那が見たのは、信じられない光景だった。
巨大な黒いドラゴンが、中庭の上で大きく羽ばたいて静止していたのだ。
「ただいま帰りました、父上!」
そしてその背から、ユーノスが顔を覗かせたのだった。




