第8話 辺境伯の違和感
ノアが屋敷に迎えられて、四日が経った。
目立った事件もなく、穏やかな日々が続いていた。
だからこそ、違和感は際立つ。
執務室は静かだった。
窓から差し込む午後の光が、書類の山を淡く照らしている。
「本日の訓練報告です」
副官のクラウディアが書簡を差し出す。
ソフィアは受け取り、目を通す。
内容に問題はない。
剣技の精度は維持。
魔法演習も安定。
負傷者なし。
だが。
「……妙だな」
声が低く落ちる。
「何かございましたか」
クラウディアが顔を上げる。
「士気が高い」
「それは良いことでは」
「高いのではない」
視線を報告書から外す。
「柔らかい」
言葉を選ぶように、続ける。
「緊張が薄い。焦燥も、苛立ちも、衝動も」
副官は困惑した表情を浮かべる。
「問題は見当たりませんが……」
「それが問題だ」
辺境の兵は常に張り詰めているべきだ。
油断は死に繋がる。
だが今日は――
どこか穏やかだ。
悪くはない。
だが、均衡が変わっている。
ソフィアは立ち上がる。
窓辺へ歩み寄る。
視線を下へ落とす。
中庭。
白い石畳。
噴水の水音。
そこに、銀髪の男。
その隣に、栗色の髪の女。
楽しげに言葉を交わしている。
距離が、近い。
周囲の侍女たちも、どこか穏やかに笑っている。
「……ノア」
名を小さく呟く。
あの男は、理の外にいる。
レベルを持たぬ存在。
鑑定に現れぬ階位。
ただ一つのスキル。
――寵愛領域。
寵愛。
その語が、胸に引っかかる。
「クラウディア」
「はっ」
「屋敷内の空気に変化はないか、調べろ」
「変化、ですか?」
「気のせいであればそれでよい」
視線は外さない。
「だが、気のせいでなかった場合は対処する」
中庭で、ノアが笑う。
その瞬間。
噴水の傍らにいた兵の肩から、わずかに力が抜けた。
目に見える変化ではない。
だが、感じる。
辺境伯としての勘が告げている。
「……守るべきか」
それとも。
「制御すべきか」
ソフィアは静かに息を吐く。
決断はまだ早い。
だが。
あの男を、ただの客人のままにしておくことはできない。
「ノア」
その名を、今度ははっきりと呟いた。
穏やかな空気の中で。
ただ一人、警戒を解かぬ者として。




