第75話 変わらぬ距離
夜。
城館の廊下は静かだった。
灯りだけが、淡く揺れている。
食事を終え、それぞれが自室へと戻った後。
クラリスは一人、廊下を歩いていた。
足を止める。
窓の外を見る。
中央島。
まだ手つかずの大地。
だが――
(……動き始めた)
静かに息を吐く。
アウルの言葉が、頭に残っている。
『この島は特別で間違い無かった』
その通りだろう。
泉。
温泉。
魔石の鉱脈。
どれも、常識から外れている。
(世界が、動く……)
そう思う。
同時に――
(殿下も……)
自然と口元が緩んだ。
「……楽しそうでしたね」
小さく呟く。
アウルは、昔からああいう顔をする人ではなかった。
――思い出す。
初めて会った日のこと。
八歳の頃。
まだ幼かった自分。
祖父――“老獅子”に連れられて、王城を訪れた。
そこに居たのは、一人の少年。
茶髪に、茶の瞳。
どこか落ち着きすぎた空気。
年相応の無邪気さが、薄い子だった。
姉の後ろに隠れるようにして立っていた。
(あの頃の殿下は……)
人と関わるのが得意ではなかった。
理由は知っている。
“心眼看破”
相手の本質を見抜く力。
それがあるが故に、近づいてくる人間の裏も見えてしまう。
だから距離を取る。
だから関わらない。
そんな子だった。
だが――
(あの日から、変わりましたね)
自分と会ってすぐ。
驚くほどあっさりと懐いた。
最初は戸惑った。
だが、すぐに分かった。
(……素直な方だと)
それからは早かった。
からかわれ。
ちょっかいを出され。
気づけば、いつも隣にいた。
王太子という立場。
エクストラスキルを持つ存在。
周囲は距離を取る。
だが自分は違った。
違えた。
(……お傍に居ると決めましたから)
祖父の意図も、理解していた。
世話役。
そして――
将来。
その意味も。
だからこそ。
(相応しくあらねばと)
勉学に励んだ。
隣に立つ者として。
恥じぬように。
やがて時は流れ。
学院へ。
そこでも、状況は変わらなかった。
アウルの周囲には人が集まる。
だが距離はある。
本当の意味で近づく者はいない。
だから。
(……結局、変わらずでしたね)
自分が隣にいた。
それが当たり前だった。
そして――
ダンジョン。
長期休暇の度に向かうその場所で。
アウルは、さらに変わっていった。
強くなっていく。
速く。
圧倒的な速度で。
(……追いつけないほどに)
それでも。
離れるつもりはなかった。
卒業。
そして王城での数ヶ月。
あの頃のアウルは――
(少し、退屈そうでしたね)
強すぎるが故に。
届く相手が少ない。
満たされない。
そんな空気を、感じていた。
だが――
「……今は違う」
小さく呟く。
ノア。
あの存在が現れてから。
明らかに変わった。
今日の食卓でもそうだ。
笑っていた。
心から楽しそうに。
(……良かった)
素直に、そう思う。
だが同時に。
(……これから先は)
視線を外へ向ける。
中央島。
この場所は、普通ではない。
資源。
価値。
そして――
ノア。
(世界が、動く)
ヴァルディアだけでは収まらない。
帝国。
聖国。
共和国。
全てが関わってくる。
その中心に、アウルは立つ。
(殿下は……)
一瞬だけ、瞳を伏せる。
不安が無いわけではない。
だが。
ゆっくりと顔を上げる。
「……それでも」
静かに。
はっきりと。
「お傍におります」
それが、自分の選んだ道だ。
そして。
迷いはない。
廊下を再び歩き出す。
その足取りは、揺るがない。
中央島の夜は、静かだった。
だが――
確かに。
何かが、動き始めている。




