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第6話 陽だまりの距離

「寝室へご案内いたします」




「もう用意されてるの?」




「はい。客人を廊下に立たせるわけには参りません」




 重厚な廊下を進み、角を二つ曲がる。




 屋敷の奥まった区画。




「こちらでございます」




 扉が開く。




 室内は落ち着いた色調で整えられていた。




 高い天井。


 大きな窓。


 深い紺のカーテン。




 壁には簡素な装飾と、控えめな絵画。




 中央には広い寝台。




 白いシーツが整然と張られている。




(広いな……)




「ご不便があればお申し付けください」




 アリスが室内に入り、手際よく灯りを調整する。




 その動きは無駄がない。




 栗色の髪が肩で揺れ、灯りを受けて柔らかく光る。




 翠色の瞳がこちらを見上げる。




 澄んだ色だ。




「本日はお疲れでしょう。どうかごゆるりと」




「ありがとう」




「明朝、朝餉の前にお迎えに参ります」




 一礼。




 そのまま扉へ向かう。




 だが、手が止まる。




 ほんの一瞬だけ、こちらを見る。




 何か言いかけて――やめる。




「……おやすみなさいませ」




 扉が閉まる。




 静寂。




 広い部屋に、ひとり。




 寝台に腰を下ろす。




 柔らかい。




 横になる。




 天井を見上げる。




 沈む感触が、妙に現実的だ。




(本当に、ここにいるんだな)




 辺境伯。


 屋敷。


 レベルのない自分。




 この世界で、僕は何者になるのか。




 そんなことを考えながら、いつの間にか意識は沈んだ。





 ---




 翌朝。




 控えめなノック。




「ノア様。お目覚めでしょうか」




 柔らかな声。




「……起きてます」




 扉が開く。




 朝の光を背に、アリスが立っていた。




「朝餉のご用意が整っております」




「もうそんな時間?」




「はい。本日は屋敷をご案内いたしますので、まずはお食事を」




 整っている。




 昨日と変わらない完璧さ。




 だが。




 どこかほんの少しだけ、視線が落ち着かない。




「すぐ行きます」




 上衣を整え、部屋を出る。




 廊下に出た瞬間、空気が変わる。




 止まる足音。




 控えめな囁き。




 視線が集まる。




 逸らされる。




 でも、また戻る。




(昨日より増えてないか?)





 ---




 食堂。




 昨日と同じ長いテーブル。




 だが朝の光が差し込み、空気は軽い。




 席に着く。




 カトラリーを見る。




(外側から、だな)




 昨日の失敗を思い出す。




 今度は慎重に。




 パンをちぎる。




 音は立たない。




 スープをすくう。




 こぼさない。




(よし)




 向かいに座るソフィアが、静かに見ている。




「少しは慣れたようだな」




「……昨日よりは」




「成長が早い」




 淡々とした声。




 だが、口元が僅かに緩む。




 胸の奥が、少し熱くなる。




 料理は温かく、優しい味だ。




 自然と肩の力が抜ける。




 周囲の侍女たちの動きも、どこか穏やかだ。




 誰もが、ほんの少しだけ表情が柔らかい。




 何もしていない。




 ただ、そこに座っているだけだ。




 それなのに。




「ノア」




 ソフィアが名を呼ぶ。




「はい」




「焦らずとも良い。だが無為に過ごすな」




 真っ直ぐな視線。




 逃げ場はない。




 だが、不思議と圧迫感はない。




「……はい」




 素直に頷く。




 その様子を、アリスが静かに見ている。




 朝餉が終わる。




 立ち上がると、自然と視線が追ってくる。




 ざわめき。




 けれど、嫌なものではない。




 アリスが一歩前へ出る。




「まずは中庭から参りましょう」





 ---




 中庭。




 すれ違う侍女たち。




 視線。




「……あの方が」


「本当に……」




 悪い気はしない。




 むしろ、妙に心地いい。




 背筋が自然と伸びる。




 噴水の水音。




 白い石畳。




 花の手入れをしていた若い侍女が、立ち上がった瞬間こちらを見る。




 視線が絡む。




 固まる。




「あ……」




 じっと見つめたまま、動かない。




「どうかしましたか?」




 声をかけると、顔が真っ赤になる。




「い、いえっ」




 慌てて頭を下げる。




 そのまま、作業に戻るが――




 手元が明らかに乱れている。




(……これは、偶然か?)




 横を見る。




 アリスの歩幅が、少しだけ狭い。




 距離が近い。




 肩が、触れそうだ。




「アリスさん?」




「は、はい」




 声が僅かに上擦る。




「何か変?」




「……いいえ」




 だが。




 彼女の呼吸が、少しだけ深い。




 無意識に、僕の歩幅に合わせている。




 そして、ほんの僅かに寄ってくる。




(あれ?)




 昨日より近い。




 意識していない動きだ。




 自然に、だ。





 ---




 廊下を抜け、訓練場へ。




 女性兵士たちが剣を振るっている。




 動きが止まる。




 視線が一斉に集まる。




 一人が、剣を落とした。




 金属音が響く。




「集中しろ」




 教官の声。




 だが彼女自身も、こちらを見ている。




(……これ、僕のせい?)




 不思議だ。




 何かをしているわけではない。




 ただ、そこにいるだけ。




 けれど。




 空気が柔らかくなる。




 緊張が少し解ける。




 視線が、集まる。




 アリスが、小さく息を吐いた。




「ノア様は……」




 言いかけて、止まる。




「何?」




「いえ」




 彼女は視線を逸らす。




 だが、少ししてから。




「皆様、どこか穏やかになっております」




 穏やか。




 その言葉が、胸に残る。




(……関係あるのか?)




 昨夜見たスキル。




 寵愛領域。




 効果は分からない。




 だが。




 何かが、波のように広がっている気がする。





 ---




 中庭へ戻る途中。




 日差しが差し込む廊下で、アリスが立ち止まった。




「ノア様」




「うん?」




 真っ直ぐに見上げてくる。




 彼女の翠の瞳と、僕の琥珀の瞳が絡む。




 距離が近い。




 昨日より、明らかに。




「……その」




 言葉が詰まる。




「どうしました」




 微笑む。




 それだけで、彼女の頬が染まる。




「本日は、気分が……良いです」




「それは良かった」




「ええ。とても」




 少し、沈黙。




「ノア様のお側は、落ち着きます」




 その言葉は、無意識だった。




 計算も、打算もない。




 ただの感想。




 胸の奥が、少しだけ温かくなる。




(……悪くないな)




 それは単なる容姿の問題ではない。




 ただ。




 空気が柔らかくなる。




 隣にいる人が、少しだけ笑う。




 それが、こんなにも心地いいとは。




 僕はまだ知らない。




 この“穏やかさ”が、どれほど大きな波を生むのかを。

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