第5話 白銀の客人
湯浴みを終え、用意されていた衣服に袖を通す。
上質だが華美ではない。
淡い灰銀色の立ち襟の上衣。
体の線を自然に拾う、無駄のない仕立て。
触れただけで分かる。
良い布だ。
(……客人扱い、か)
鏡の前で襟元を整えた、そのとき。
控えめに扉が叩かれた。
「ノア様、お加減はいかがでしょうか」
「大丈夫です。今出ます」
扉を開ける。
そこに立っていたアリスが、ふっと息を止めた。
一瞬。
本当に、ほんの一瞬だけ。
視線が僕の顔から胸元へ、そしてまた瞳へ戻る。
言葉が遅れる。
「……よく、お似合いです」
声が少しだけ柔らかい。
「そう? 変じゃない?」
「……とても」
その頬は、湯気のせいではない。
そして、わずかに姿勢を正す。
「夕餉の準備が整っております。ソフィア様がお待ちです」
「もう?」
「はい。客人を空腹のままにはいたしません」
さらりと言う。
その口調は穏やかだが、どこか誇らしげだ。
(徹底してるな……)
「では、ご案内いたします」
廊下へ出る。
すれ違う侍女たちの足が止まる。
目が合う。
逸らされる。
だが今度は違う。
一瞬、名残惜しそうに視線が戻る。
囁き声が、ほんの少し。
(分かりやすいな……)
悪い気はしない。
むしろ、少し背筋が伸びる。
アリスが半歩前を歩く。
その歩幅が、ほんの僅かにゆっくりだ。
僕に合わせているのか。
それとも――
(いや、考えすぎか)
重厚な扉の前で足が止まる。
「こちらです」
静かに扉が開かれる。
灯りに照らされた長い食卓。
そして。
「来たか」
ソフィアが席についていた。
その視線が、僕へ向けられる。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
蒼い瞳が、静かに細まった。
「……似合っているな」
低く、短く。
だが確かに届く声。
「ありがとうございます」
胸の奥が、わずかに熱を帯びる。
「座れ」
アリスが椅子を引く。
動作が、完璧だ。
(これ逃げられないやつだ)
覚悟を決めて席に着く。
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夕食の席。
整然と並ぶ皿。
複数のカトラリー。
(多いな……)
ソフィアは自然に手を伸ばす。
その動きを横目で追う。
(外側から使う……? 多分)
ナイフを持つ。
少し、ぎこちない。
音を立てないように慎重に肉を切る。
切れない。
力を入れすぎる。
皿がかすかに鳴る。
(まずい)
さりげなく角度を変える。
今度は切れた。
ほっとする。
口へ運ぶ。
噛む。
うまい。
「……どうした」
ソフィアの声。
「いえ」
慌てて姿勢を正す。
「その、慣れていないもので」
「見れば分かる」
淡々とした声。
だが続きがあった。
「だが、無作法ではない」
一瞬、顔を上げる。
蒼い瞳がこちらを見ている。
「無理に取り繕うよりは良い」
(……褒められた?)
胸の奥が、少し熱くなる。
その後も慎重に、慎重に食べ進める。
スープを飲むとき、ほんの少しだけ器を傾けすぎて、慌てて戻す。
アリスが隣で静かにフォローする。
ナプキンの位置をそっと整えられる。
さりげない。
完璧だ。
(助かる……)
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食後、私室へ呼ばれた。
灯りは控えめ。
書棚と机、地図。
ソフィアは椅子に腰掛け、こちらを見上げる。
「ノア。今後の話だ」
「はい」
「明日から労働を課すつもりはない」
意外だった。
「この屋敷と、この国を知れ。己が何を成せるか、見極めろ」
「……ありがとうございます」
「だが」
蒼い瞳が細まる。
「力を持つ者は、無自覚であってはならん」
その言葉に、息が止まる。
「お前、自分の力を把握しているか」
「……力?」
「ステータスだ」
(ステータス?)
聞いたことはあるような、ないような。
わずかな沈黙。
「知らぬのか?」
「はい」
ソフィアは小さく息を吐いた。
「己に意識を向けろ。念じれば見える」
(念じるって何だよ)
半信半疑で、目を閉じる。
内側へ意識を向ける。
何となく。
本当に、何となく。
(……ステータス?)
ふわり、と。
視界の奥に文字が浮かぶ。
驚いて目を開ける。
消えない。
目を閉じても、見える。
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名前:ノア
レベル:—
スキル:
寵愛領域
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「……出ました」
「内容は」
「レベルが、ないです」
「そうだな」
(そうだな?)
一瞬の疑問、だがすぐに返す
「空欄……いえ、『—』と」
そして。
「寵愛領域、というスキルが一つ」
(……で、何?)
レベルがない。
スキルが一つ。
だが効果は分からない。
説明もない。
手応えもない。
「……それだけです」
「それだけ、か」
ソフィアはしばし考え込む。
「少なくとも異常だが断定はできん」
視線が、まっすぐ向けられる。
「明日、屋敷を回れ。アリスを付ける」
「はい」
「焦るな。だが無知でいるな」
真っ直ぐな言葉。
その視線が、一瞬だけ柔らいだ。
「……その装いは似合っている。悪くない」
不意打ちだった。
「……ありがとうございます」
胸の鼓動が、少し速くなる。
ソフィアは、視線を逸らす。
「下がれ」
「失礼します」
扉を閉める。
廊下にはアリスが待っていた。
「いかがでしたか」
「明日、屋敷を回れって」
「わたしとですね」
柔らかく微笑む。
その距離が、僅かに近い。
(……気のせいか?)
いや。
違う。
彼女の呼吸が、ほんの少し整っていない。
僕はまだ知らない。
この屋敷で。
この世界で。
“寵愛領域”が、静かに波紋を広げ始めていることを。




