第4話 辺境伯の判断
その日は、珍しく気が荒れていた。
報告書は山積み。
王都からの通達は曖昧。
街道添いでは魔物の出没が増えている。
――面倒だ。
執務室の空気が重くなり、私は立ち上がった。
「少し走らせる」
侍女にそう告げ、愛馬に跨る。
日が傾き始めた頃合い。
本来なら屋敷に戻る時間だが、あえて逆方向へ手綱を向けた。
辺境伯とは、守る者だ。
机上だけで守れるほど、この地は甘くない。
巡回は口実に過ぎない。
本音を言えば――頭を冷やしたかった。
草原を駆ける風は冷たく、思考を澄ませる。
その時だった。
視界の端に、人影が映る。
――男。
この世界で男は希少だ。
総人口の一割。
その存在は出生と共に国へ記録される。
放浪するなど、あり得ない。
私は馬を止め、距離を詰めた。
銀の髪。
異質な佇まい。
何より――
“世界に馴染んでいない”。
直感だった。
「名は」
問いに、彼は答えられなかった。
私は鑑定を起動する。
視界の奥に、半透明の文字が浮かぶ。
通常なら、
名前。
レベル。
所持スキルとその階位。
だが。
――空白。
レベルが無い。
あり得ない。
人も魔物も、必ず数値を持つ。
この世界は“理”によって構築されている。
レベルとは存在の証明だ。
だが彼には、それが無い。
表示されているのは、
名:――
レベル:―
スキル:寵愛領域
白金に淡く発光する文字。
階位表示なし。
エクストラスキル。
男の0.01%にしか発現しない理外の力。
しかし。
それすら、どこか歪だ。
理解できないものを前にした時、取るべき行動は一つ。
排除か、保護か。
私は一瞬だけ考え――
保護を選んだ。
理由は単純だ。
未知は、制御できる場所に置くべきだ。
そして。
あの瞳には、敵意が無かった。
ただ、迷いと戸惑いだけ。
男は国の資産だ。
それがこの世界の常識。
だが私は、資産としてではなく――
一つの存在として見た。
「名が無いなら、与える」
口にした瞬間、不思議な感覚が走る。
世界に刻むような響き。
「ノア」
発した瞬間、鑑定表示が僅かに揺らぎ、
名が確定した。
名を与えることは、存在を認めること。
だが、レベルは依然として空白。
理の外。
夢神の逸話が脳裏をよぎる。
公に語られることはないが、識者の間では知られている。
六柱の女神が世界を形作り、
その夢から男神が生まれた。
可能性と逸脱を司る存在。
もし。
もし目の前の男が、その系譜に連なるものなら。
辺境伯として、見過ごすわけにはいかない。
「ついてこい」
私は手を差し出した。
彼の手は、温かかった。
――危険ではない。
少なくとも、今は。
屋敷へ戻る道すがら、思考を巡らせる。
国王に報告すべきか。
王太子に知られれば、奪われる可能性もある。
帝国が嗅ぎつければ、研究対象だ。
共和国なら利用する。
聖国は異端認定しかねない。
……ならば。
まずは私の手元に置く。
育てる。
観察する。
判断はその後だ。
辺境伯の責務は、国を守ること。
そのためなら、未知も抱える。
彼は、まだ何者でもない。
だが。
理に刻まれぬ存在が、
この世界にどんな波紋を広げるのか。
それを見届ける義務が、私にはある。
ヴァルグレインの門が開く。
夜の帳が降りる。
私は静かに決意した。
この異物は、私が引き受ける。




