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第53話 挨拶のキス

 早朝。




 港。




 潮の匂いが強い。




 桟橋の先。




 一隻の大型帆船が停泊していた。




 紫の旗。




 羅針盤と薔薇の紋章。




 ルクレツィア船団の旗艦――




 紫星号。




「来たわね」




 ヴィオラが甲板の上から手を振る。




 馬車はそのまま桟橋を進み、誘導されるまま紫星号の積載口へと向かった。




 順に馬車から降りる。




 船内を進み、甲板へ出た。




 その瞬間。




 ノアは気づいた。




「……武装してるんだ」




 甲板の各所。




 弩。




 槍。




 剣。




 そして船員たちも軽装ながら武器を携えている。




 ヴィオラが答える。




「海は安全だけど」




「人はそうでもないのよ」




「海賊対策ね」




 ノアは納得する。




「なるほど」




 そのときだった。




 船員の一人がノアを見て、動きを止めた。




「……」




 もう一人。




 また一人。




 視線が集まる。




 女、女、女。




 そして全員が、ほんの一瞬見惚れる。




 アウルが横で笑う。




「ほら来た」




 ノアは苦笑する。




「まあ……慣れてるし」




「別に嫌じゃないよ」




 その言葉に。




 ソフィアの眉がわずかに動いた。




「……そうか」




 短い一言。




 だが少しだけ冷たい。




 その空気を裂くように。




 ヴィオラが近づいてきた。




「ノア」




 距離が近い。




 自然に隣へ立つ。




「船の上は初めて?」




「うん」




「じゃあ案内してあげる」




 腕を取ろうとする。




 その瞬間。




「やめろ」




 低い声。




 ソフィアだった。




 ヴィオラが止まる。




 ちらりと見る。




「……あら?」




 ソフィアは一歩前に出る。




「不用意に触れるな」




 ヴィオラは小さく笑った。




 そしてノアを見る。




「嫌だった?」




 ノアは少し考える。




「いや」




「別に嫌じゃないよ」




 その一言。




 ソフィアの表情がわずかに強張る。




「……そうか」




 今度は少しだけ強い声だった。




 ヴィオラはくすっと笑う。




「安心したわ」




 そのまま距離を保ったまま、隣に立つ。




 船がゆっくりと動き出す。




 出航。




 港が遠ざかる。




 海の上。




 風が強くなる。




 帆が張る。




 紫星号は滑るように進んでいく。




 出航後、しばらくは客室で休むことになった。




 時間は流れ――




 やがて。




 陸が見えてきた。




 中央島。




 岩肌と草原。




 そして高台の城館。




 港にはすでに人影があった。




 騎士。




 兵士。




 整列している。




 ソフィアが前に出る。




「控えろ」




 一言。




 それだけで空気が締まる。




 船が接岸する。




 降りる。




 そのときだった。




「ノア」




 ヴィオラが呼ぶ。




 振り向く。




 一歩近づく。




 距離が近い。




 そして――




 軽く。




 頬に触れる。




 唇。




 一瞬。




 離れる。




「……っ」




 ノアが固まる。




 ソフィアの目が見開かれる。




 アウルが吹き出す。




「おいおい」




「やるなぁ」




 ノアは遅れて反応する。




「え、いや……」




「今のは……?」




 ヴィオラは楽しそうに笑う。




「挨拶よ」




 そして。




 さらりと言った。




「私、この子好きだわ」




 沈黙。




 ソフィアの空気が変わる。




「……行くぞ」




 短く、強く。




「早く帰る」




 踵を返す。




 ノアはまだ少し混乱したままだ。




 アウルが肩を叩く。




「お前」




「やっぱ面白いな」




 紫星号はそのまま港に残る。




 そして。




 一行は中央島へ戻っていく。




 新しい関係を引き連れて。

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