第31話 侍女の決意
夜。
宿町の廊下は静まり返っていた。
魔石ランプの灯りが、淡く床を照らしている。
アリスは静かに部屋を出た。
扉を閉める音も立てない。
振り返る。
部屋の中ではヘレナが眠っている。
ソフィアも、もう休んでいるはずだった。
アリスはゆっくり息を吐く。
胸が落ち着かない。
理由は分かっている。
ノアだ。
明日、王都に着く。
その後、どうなるのかは分からない。
王城に置かれるかもしれない。
王国が管理するかもしれない。
中央島へ戻れる保証はない。
そうなれば。
もう今のようにノアの世話をすることもない。
食事を運ぶことも。
中庭で話すことも。
笑い合うことも。
なくなるかもしれない。
アリスは廊下を歩く。
静かな宿。
足音を消すように進む。
やがて、止まる。
目の前の扉。
ノアの部屋。
そこに手を伸ばす。
「……」
指先が扉に触れる。
少しだけ、震えた。
自分でも分かっている。
軽率なことだ。
侍女として。
辺境伯の従者として。
本来してはいけない行動。
それでも。
「……今夜しか」
小さく呟く。
王都に着けば、何が起きるか分からない。
だから。
今夜だけ。
もう一度だけ。
ノアと話したい。
そう思った、そのときだった。
「アリス」
静かな声。
アリスの身体が止まる。
振り向く。
廊下の奥。
そこに立っていたのは――
ソフィアだった。
蒼い瞳がまっすぐこちらを見ている。
アリスは一瞬だけ目を伏せた。
だが、すぐに顔を上げる。
隠すつもりはなかった。
「……ノア様に」
静かに言う。
「お会いしようと思いまして」
ソフィアはしばらく黙っていた。
怒ってはいない。
ただ、静かに見ている。
やがて口を開いた。
「軽率だ」
声は低い。
だが、厳しさはない。
アリスは小さく息を吐いた。
「……はい」
それでも、言葉を続ける。
「ですが」
「明日、王都に着きます」
「ノア様がどうなるか分かりません」
アリスは扉に手を置いたまま言った。
「もしかしたら」
「もう中央島には戻らないかもしれません」
沈黙。
ソフィアはゆっくり近づいてくる。
そしてアリスの前で止まった。
「……気持ちは分かる」
静かな声だった。
アリスが目を上げる。
ソフィアは続けた。
「だが」
「今夜はやめておけ」
アリスは少しだけ唇を噛む。
「……どうしても、ですか」
ソフィアは短く答えた。
「ああ」
その声は落ち着いている。
揺らがない。
そして少しだけ視線を横に向けた。
「ノアの処遇はまだ決まっていない」
「王の判断次第だ」
アリスは黙って聞いている。
ソフィアは言葉を続けた。
「だが」
「私も手を打つ」
アリスの瞳がわずかに揺れる。
ソフィアは静かに言った。
「ノアを私の管理下に置けるよう」
「王に直訴してみる」
廊下に沈黙が落ちる。
アリスはしばらく動かなかった。
やがて、ゆっくり手を下ろす。
扉から離れた。
「……分かりました」
小さく頭を下げる。
「軽率でした」
そして顔を上げた。
「ありがとうございます」
ソフィアは何も言わない。
ただ小さく頷いた。
二人は静かに廊下を戻る。
宿町の夜は静かだった。
ノアはまだ知らない。
この廊下で交わされた約束を。
そして。
それが未来を少しずつ動かしていることを。
静かな夜が続いていく。




