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第30話 辺境伯の夜

 宿町の夜は静かだった。




 遠くから旅人の声が聞こえる。




 馬のいななき。




 酒場のざわめき。




 だが、この宿の上階は落ち着いている。




 ソフィアはベッドに横になり、天井を見上げていた。




 眠れない。




 身体は疲れている。




 中央島からの移動。




 街道の長旅。




 本来ならすぐ眠れるはずだった。




 だが、目が冴えている。




 ……原因は分かっている。




「……叔母上」




 小さく呟く。




 ヘレナ・ヴァルグレイン。




 先代辺境伯。




 三十年以上中央島を治めた女。




 その叔母が、突然島に現れた。




 あのときのことを思い出す。




 兵士たちのざわめき。




 そして。




 ノアを見たときの、叔母の顔。




 あの瞬間。




 全てが変わった。




 ノアは国家案件になった。




 王都へ。




 王へ報告。




 それは分かっていた。




 最初から、分かっていたはずだ。




 ノアは普通ではない。




 レベル無し。




 白金のエクストラ。




 《寵愛領域》




 そんな存在を中央島で抱え込めるわけがない。




 分かっていた。




 分かっていたのに。




 ソフィアは目を閉じる。




 三ヶ月。




 ノアが中央島に来てからの時間。




 最初は保護対象だった。




 記憶のない男。




 危険性の分からない存在。




 だから城館の中に置いた。




 監視のため。




 検証のため。




 それだけのはずだった。




 だが。




 ノアはすぐに城館に馴染んだ。




 侍女たち。




 騎士たち。




 魔術師。




 誰とでも自然に話す。




 笑う。




 困っている者を見れば手を貸す。




 そして。




「……顔は良い」




 ソフィアは小さく呟いた。




 それは最初から分かっていた。




 初めて見たときから整った顔立ちだとは思った。




 侍女たちが騒ぐのも無理はない。




 アリスがよく世話を焼くのも。




 城館の女たちがノアの周りに集まるのも。




 別に、不思議ではない。




 だが。




 ふと、思い出す。




 中庭。




 食堂。




 廊下。




 ノアが侍女たちと笑っている姿。




 アリスと並んで話している姿。




 その光景を見たとき。




 胸の奥が、わずかに引っかかる。




「……なぜだ」




 小さく呟く。




 理解できない。




 ノアはただの保護対象だ。




 そうだ。




 そう決めていた。




 だが。




 明日、王都に着く。




 王に報告すれば。




 その後どうなるかは分からない。




 王城に置かれるかもしれない。




 王国が管理するかもしれない。




 中央島から離れる可能性もある。




 そこまで考えて。




 ソフィアは小さく息を吐いた。




「……馬鹿なことを考えている」




 ノアは特別な存在だ。




 だから王国が管理するのは当然だ。




 辺境伯が抱え込むものではない。




 そうだ。




 そうなのだ。




 それなのに。




 胸の奥が、妙に落ち着かない。




 静かな部屋。




 隣のベッドではヘレナが眠っている。




 寝息は規則正しい。




 そのときだった。




 扉が静かに開く音。




 ソフィアは視線を向ける。




 アリスだった。




 気づかれないように、静かに部屋を出ていく。




「……」




 ソフィアは黙ってそれを見る。




 夜。




 廊下。




 そして。




 アリスの視線は、ノアの部屋の方向。




 数秒。




 沈黙。




 ソフィアはゆっくり身体を起こした。




「……まったく」




 小さく呟く。




 そして静かにベッドから降りた。




 廊下へ向かう。




 静かな宿の夜。




 その先で何が起きるのか。




 まだ、誰も知らない。

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