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第29話 宿町の夜

 石壁に囲まれた、小さな町。




 街道を行き交う旅人のための中継地。




 王都まで一日の距離にある宿町だ。




 馬車の中でソフィアが窓の外を見る。




「……宿町だ」




 日もかなり傾き始めている。




 予定通りだ。




 御者が手綱を軽く引く。




 馬車の速度が少し落ちた。




 町の門をくぐる。




 その瞬間だった。




 ざわっ。




 周囲の空気が変わる。




 街道沿いの商人。




 旅人。




 荷車を押す人々。




 その視線が一斉にこちらへ向いた。




 鎧。




 騎士。




 そして辺境伯の馬車。




 目立たないはずがない。




「……やはり騒ぎになるな」




 ヘレナが小さく笑う。




 ソフィアは短く言った。




「宿へ直行する」




 馬車は町の中心へ進む。




 大きな建物が見えてきた。




 三階建ての宿。




 街道でも有名な高級宿だ。




 馬車は表ではなく、建物の裏へ回った。




 裏口。




 御者が止める。




 ヘレナが馬から降りた。




「静かに入るぞ」




 騎士たちが頷く。




 裏口の扉が開いた。




 中から宿の女将が出てくる。




 そして。




 一瞬、固まった。




「……辺境伯様」




 ソフィアが短く頷く。




「一泊する」




「部屋を三つ用意しろ」




 女将は慌てて頭を下げた。




「す、すぐに」




 そのときだった。




 女将の視線が、ふとノアへ向く。




 一瞬。




 本当に一瞬。




 だが確かに動きが止まった。




「……」




 そのまま目を逸らす。




 だが。




 後ろにいた給仕の娘も。




 通りかかった従業員も。




 ちらりとノアを見る。




 視線。




 そして慌てて逸らす。




 ノア本人は気づいていない。




 ただ少し不思議そうに周囲を見ているだけだ。




 女将が言った。




「こちらへ」




 一行は廊下を進む。




 高級宿らしく、床は磨かれた木。




 魔石ランプが柔らかく灯っている。




 女将が説明する。




「ただいま空いている上階の部屋を三つご用意いたしました」




 ソフィアが言う。




「ノア」




「お前は一人部屋だ」




 ノアが少し驚く。




「え?」




 ソフィアは淡々と言う。




「一人で休め」




 ソフィアが続ける。




「私と叔母上、それにアリス」




「三人で一部屋」




「騎士と御者は四人部屋だ」




 騎士たちは当然のように頷く。




 女将が部屋の扉を開いた。




「こちらです」




 ノアは部屋へ入った。




 広い。




 街道宿とは思えないほど整っている。




 ベッド。




 机。




 椅子。




 そして大きな窓。




「……思ったより立派ですね」




 ノアが言う。




 アリスが微笑む。




「王都の手前ですから」




「良い宿が多いのです」




 ソフィアが言った。




「夕食は部屋に運ばせる」




「外に出るな」




「……分かりました」




 ソフィアとヘレナは部屋を出た。




 扉が閉まる。






 ---






 しばらくして。




 コンコン。




 控えめなノック。




「ノア様」




 扉を開けると、アリスが立っていた。




 手には食事の盆。




「夕食をお持ちしました」




 机に料理を並べる。




 温かいスープ。




 肉料理。




 パン。




 旅の途中とは思えない食事だ。




 ノアは椅子に座る。




「いただきます」




 食事を始める。




 しばらくして。




 アリスがふっと笑った。




「……少し」




「口元に」




「え?」




 アリスが布を取り出す。




 そして。




 そっとノアの口元を拭いた。




 距離が近い。




 翠の瞳。




 柔らかい香り。




 ノアは少しだけ動きを止めた。




「……ありがとう」




「いえ」




 アリスは微笑む。




 しばらく、二人で話した。




 旅のこと。




 中央島のこと。




 王都のこと。




 静かな時間だった。




 だが。




 コンコン。




 再びノック。




 扉が開く。




 入ってきたのはソフィアとヘレナだった。




 ソフィアが言う。




「……何をしている」




 ノアが答える。




「夕食です」




 ソフィアは一瞬だけアリスを見る。




 そして言った。




「明日も早い」




「食べたら寝ろ」




「……はい」




 アリスが盆を持つ。




「それでは失礼します」




 三人は部屋を出ていった。




 扉が閉まる。




 静かな部屋。




 ノアはベッドに腰を下ろした。




 窓の外を見る。




 宿町の夜。




 遠くで人の声。




 旅人の灯り。




 そして。




 明日。




 王都に着く。




 ノアは小さく息を吐いた。




「……王都か」




 まだ知らない。




 そこで待っている出会いを。




 そして。




 世界が少しずつ動き始めていることを。




 静かな夜が過ぎていく。

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