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第2話 辺境伯と相乗り、そして世話係

「歩けるか」




 ソフィアが馬の手綱を軽く引きながら言った。




 夕暮れが濃くなり始めている。


 辺境の風は冷えが早い。




「……はい」




 そう答えたものの、ソフィアは首を横に振った。




「屋敷まで距離がある。日が落ちる前に戻る」




 そう言って、軽やかに馬に跨る。




 そして。




「後ろに乗れ」




 一瞬、思考が止まった。




「……後ろ、ですか」




「他にどうする」




 正論だった。




 だが。




 距離が、近い。




 男が希少な世界。


 彼女は辺境伯。


 そして僕は、名を与えられたばかりの存在。




「失礼します」




 無駄な動きをしないよう、慎重に馬に足をかける。




 鞍に手を添えた瞬間、彼女の体温が近くなる。




 近い。




 思っていたより、ずっと。




 背中越しに伝わる温もり。


 鎧越しでも分かる、しなやかな身体の線。




(落ち着け)




 鼓動が速くなるのを自覚する。




 だが腕は回さない。


 背に触れない。




 鞍の縁を掴むだけに留める。




 ソフィアが小さく息を吐いた。




「遠慮するな。落ちるぞ」




「……触れても?」




「当然だ」




 許可。




 ゆっくりと、彼女の腰に手を回す。




 固い鎧の感触。


 その下に、確かな身体。




 風が吹く。




 馬が歩き出す。




 揺れる。




 距離が縮まる。




 冷たい風を切り裂くように、馬は草原を駆けていた。




 ――速い。




 そう思いながら、正面から伝わる体温に意識を奪われそうになる。




「……振り落とされるなよ」




 低く落ち着いた声。




 煌く金髪が風になびくたび、かすかに甘い香りが届く。




(……近い)




 正直に言えば、それどころではなかった。




 初対面の女性と、同じ馬に相乗り。




 しかも相手は、この地を治める当主。




 距離感が、物理的にも精神的にも、やけに近い。




「……大丈夫か?」




 ふと、ソフィアがわずかに振り返る。




 その蒼い瞳に見下ろされ、ノアの心臓が一拍跳ねた。




「い、いえ。問題ありません」




 できるだけ平静を装う。




 装うが――




(近いって……)




 身体に伝わる体温と、時折触れる柔らかな感触に、どうしても意識が持っていかれる。




 ソフィアは気づいているのかいないのか、前を向いたまま続けた。




「貴様のことは、ひとまず我が邸で保護する」




「……ありがとうございます」




「だが」




 声が、少しだけ鋭くなる。




「甘やかすつもりはない。働けるなら働いてもらう」




 ノアは一瞬だけ目を瞬かせ――




 そして、素直に頷いた。




「……はい」




 依存するつもりはない。




 ただ――




(……ここで生きるしか、今はない)




 それだけは、はっきりしていた。





 ---




 ◆





 ---




 やがて、視界の先に巨大な石造りの屋敷が見えてくる。




「……あれが」




「ああ。ヴァルグレイン邸だ」




 辺境とは思えないほど整備された城館。




 高い外壁、規律正しく並ぶ兵、行き届いた庭園。




(……すごいな)




 素直に、そう思った。




 門番が駆け寄る。




「ソフィア様、お戻りで」




「客人だ」




 客人。




 その言葉に、胸の奥がわずかに温かくなる。




 受け入れられた気がした。




 門が開く。




 馬がゆっくりと中へ進む。




 敷地に入った瞬間、視線が集まる。




 女、女、女。




 整然とした兵。


 使用人。


 侍女。




 男は、いない。




(……これが、この世界)




 馬が止まる。




 ソフィアが先に降りる。




 そして手を差し出す。




「降りろ、ノア」




 その名を呼ばれるたび、


 自分が“ここにいる”と実感する。




 彼女の手を取る。




 しっかりとした掌。




 引き上げられる形で、地面に降り立つ。




 一瞬だけ距離が近い。




 互いの呼吸が交わる。




 だがすぐに離れる。




「ついてこい」




 屋敷の扉が開く。




 温かな灯りが溢れる。




 中から足音が一つ。




「ソフィア様」




 柔らかな声。




 淡い栗色の髪の少女が、深く一礼する。




 その視線が、僕に向いた。




 驚き。




 そして、静かな好奇心。




「こちらは……」




「ノアだ」




 短い紹介。




 だが十分だった。




「アリス」




「はい、ソフィア様」




 柔らかく、それでいてよく通る声。




「ノアの世話係を任せる」




 ――一瞬。




 周囲の空気が、わずかにざわついた。




 驚きは、ほんの一拍。




 すぐに、彼女は優雅に一礼した。





 少女は整った所作で一歩前に出る。




「わたしはアリス・レインフォードと申します。今宵よりお世話を担当いたします」




 その声は、優しい。




 けれど軽くない。




「……ノアです。よろしく」




 視線が重なる。




 一瞬だけ、彼女の頬がほんのり色づく。




 理由は分からない。




(……綺麗だ)




 思ったが、言わない。




 ソフィアがそれを見ている気がしたからだ。




 アリスの視線が、ノアの外套の泥や旅の埃を静かに確かめる。




「まずは湯浴みを」




 アリスが穏やかに言う。




「長旅でお疲れでしょう」




 長旅。




 そうか。




 僕は、ここへ辿り着いたのだ。




 名を与えられ、


 屋敷へ迎え入れられ。




 まだ何も成していない。




 だが。




 ――ここから始まる。




 そう思えた。

挿絵(By みてみん)

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