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第1話 名を持たぬ僕と、辺境の夕暮れ

 目を覚ましたとき、最初に見えたのは空だった。




 やけに赤く滲んだ空。


 どこまでも広がる茜が、現実を遠ざけていた。




 瞬きをしても消えない。




 草の匂いがする。


 湿った土の感触が背中にある。




(……外?)




 ゆっくり身体を起こす。


 痛みはない。傷もない。服は見慣れたまま。




 でも。




 ここがどこかは、分からない。




 記憶を辿る。


 けれど自分の名前すら、霧がかかったように掴めなかった。




「――動くな」




 低く、よく通る声が降ってきた。




 顔を上げると、少し離れた場所に一頭の馬。


 その上に、一人の女性。




 淡い金の髪を後ろで結い、簡素だが質の良い鎧を身に着けている。


 剣は腰に。手は柄にかかっていない。




 だが、隙はない。




 視線が鋭い。


 それでいて、無闇な敵意は感じない。




「……答えろ。名は?」




 名。




 その問いに、胸の奥がひやりと冷えた。




「……分かりません」




 正直に言うしかなかった。




「分からない、だと?」




「気づいたら、ここにいました。名前も……」




 声は落ち着いていた。


 不思議なくらい。




 女性は馬から静かに降りる。


 距離を詰める。足音はほとんどしない。




 目の前に立たれると、改めて分かる。




 綺麗だ。




 整いすぎている。


 強さと知性を併せ持つ顔立ち。




 けれど、それを口に出すほど軽率ではない。




「怪我はないな」




「はい」




「立てるか」




 頷き、ゆっくり立ち上がる。


 身体は軽い。違和感はない。




 女性は一瞬だけ、僕の全身を見渡した。




 値踏みではない。


 確認。




「……異物だな」




「いぶつ?」




「この地の理に馴染んでいない」




 その言葉の意味は分からない。


 だが、彼女はもう何かを確信しているらしかった。




「私はソフィア・ヴァルグレイン。辺境伯だ」




 辺境伯。




 聞いたことのない世界で、


 その響きだけが妙に重く感じられた。




 僕は自然と背筋を伸ばす。




「……僕は、どうすれば」




 ソフィアは数秒、黙って僕を見つめた。




 逃げるか。


 媚びるか。


 怯えるか。




 そういう反応を待っているような、静かな間。




 僕は視線を逸らさない。


 だが挑まない。




「名もなく、戸籍もない男がこの辺境にいれば、狩られる」




 さらりと言う。




「……男は希少だ」




 その一言で理解した。




 ここは、男が少ない世界なのだと。




「保護する」




 ソフィアは告げる。




「だが条件がある」




 胸の奥が、わずかに強張る。




「依存するな。生きるなら、自分で立て」




 厳しい。




 けれど、不思議と嫌ではなかった。




「……はい」




「返事だけは良いな」




 ほんの僅か、口元が緩む。




 そして彼女は言った。




「名がないのは不便だ。私が与える」




 その言葉に、胸が震えた。




 名前を。




 僕に。




「……よろしいのですか」




「軽々しくはやらん。だが、お前は――」




 一歩、近づく。




「妙に静かだ。騒がず、飾らず、媚びもしない」




 視線が、真正面からぶつかる。




「“ノア”」




 その響きが、空気を震わせた。




「安息。慰め。――この辺境で、誰かの灯になれ」




 ノア。




 胸の奥に、すとんと落ちる。




「……ノア」




 僕はゆっくりと頭を下げた。




「ありがとうございます」




 その瞬間。




 名前を持った。




 この世界に、繋がった。




 ソフィアは頷く。




「ついてこい、ノア」




 夕焼けの空が、赤く染まる。




 遠く、風が草を揺らす。




 この世界が何なのか。


 僕が何者なのか。




 それはまだ、分からない。




 ただひとつ分かるのは――




 もう、独りではないということだけだった。

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