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第14話 磨かれる距離

 屋敷内での自由が許されて、三日。




 ノアは中庭の東屋で本を開いていた。




 初等兵法書。




 難解ではないが、興味深い。




 風がやわらかく吹き抜ける。




「お茶をお持ちしました」




 アリスが静かに現れる。




 栗色の髪が揺れ、翠の瞳が柔らかく細まる。




 以前より自然に、距離が近い。




 卓上に茶器が置かれる。




 所作が、美しい。




 無駄がない。




(……前より整ってる?)




 気のせいかもしれない。




「ありがとう」




 ノアが微笑む。




 その瞬間、周囲の空気がふわりと緩む。




 庭の手入れをしていた侍女が、そっとこちらを窺う。




 別の侍女が水差しを持って近づく。




「おかわりはいかがでしょう」




 距離が、ほんの僅かに近い。




 アリスの指先が止まる。




 一瞬だけ。




 胸の奥に、小さな棘。




(……近い)




 だが、その感情はすぐに形を変える。




 怒りではない。




 焦りでもない。




 静かな決意。




(私は、侍女です)




 背筋が伸びる。




 茶の香りがより立つよう、湯温を調整する。




 声の高さを一段整える。




 視線の角度を計算する。




 完璧を、磨く。




「本日は風が穏やかですね」




 アリスの声は、澄んでいた。




 水差しを持った侍女は、ほんの僅かに距離を取る。




 気付いたのは、彼女自身だけだ。




 負けたわけではない。




 だが、及ばぬと悟る。




 その代わり。




(……私も、もっと)




 水差しを持つ指先に、わずかに力が宿る。




 ——だが、次の瞬間には静かにほどけた。




 誰も怒らない。




 誰も争わない。




 ただ、少しずつ質が上がる。




 ノアは本を閉じる。




「みんな、最近元気ですね」




 何気ない言葉。




 だが、空気がさらに柔らぐ。




「そのように見えますか」




 アリスが問う。




「うん。なんだか、安心する」




 寵愛領域。




 白金に発光する、理の外の力。




 それは奪わない。




 煽らない。




 ただ――




 良き方向へと、感情を整える。




 少し離れた回廊から、蒼い瞳が見ている。




 ソフィア。




 腕を組み、静かに観察している。




 侍女同士の軋轢はない。




 兵の規律も乱れない。




 むしろ、精度が上がっている。




(競わせているのではない)




(高め合っている)




 囲い込みは正しかった。




 だが、それ以上に。




 あの男は。




 中心でありながら、支配していない。




 ただ、在る。




「……厄介だな」




 小さく呟く。




 軍事的価値だけではない。




 屋敷そのものが、磨かれている。




 東屋。




 風が再び吹く。




 アリスの髪が、わずかに乱れる。




 ノアは自然に手を伸ばし――




 止める。




 触れない。




 ただ、そっと言う。




「葉がついてるよ」




 アリスの指が自ら髪に触れる。




 頬が染まる。




 周囲の侍女たちの呼吸が、わずかに揺れる。




 だが。




 誰も目を逸らさない。




 逃げない。




 負の感情は、芽吹かない。




 代わりに――




 静かな向上心が残る。




 屋敷は今日も穏やかだ。




 囲われたはずの男は、




 いつの間にか、




 皆が自ら近づきたくなる中心になっていた。

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