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無貌の神の転移奇譚  作者: 小峠 通


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源三郎・四月二日・二

 目覚めますと、そこは見知らぬ大きな部屋でございました。西洋風の調度品であしらえられた室内は、部屋主のセンスの良さをのぞかせております。

 大きな窓を見やれば、()は月と交代しておりました。ベッドの傍らに配された石油ランプからは、茫漠(ぼうばく)とした光が発せられております。隣に置かれた銀色の懐中時計の存在に、夢ではなかったのだと思い知らされます。見れば時刻は二二時を示しておりました。

 ベッドから出ると、源三郎は洋装の下着一丁でございました。足元の籠には洋装が用意されております。着てみれば、源三郎にもゆったりとした上物の三つ揃えでございます。軽く体を捻って具合を確かめると、異常や痛みはございません。着心地も大変ようございます。

 部屋を出ると、側面にすぐ階段がございました。下では明かりが灯っております。慎重に下りていくと、割烹着姿の女性が姿を現しました。

「旦那様を呼んでまいります」

 言いしな外へと飛び出していきました。

 一階部分も洋装ではございますが、部屋の程度は大いに落ちます。広さは二階と同様でございますが、こちらはシンクやトイレ、風呂などがあり、実用的な造りをしておりました。

 一通り見終えた源三郎は、中央に備えられた椅子に腰を下ろします。

 程なくして、年嵩の紳士が部屋の入り口を跨ぎました。

「やあどうも初めまして。お加減は如何ですか?」

 源三郎は立ち上がり、

「初めまして。特に怪我はなさそうです。頑丈なのが取り柄なので」

「頭をお打ちになったのではありませんか?」

 無意識的に後頭部を擦っております。

「ええ、まぁ」

「頭の怪我はよくありません。後から症状が出てくることもあります」

 靴を脱ぎながら部屋に上がりました。後ろには先程の女中も控えております。

「どうぞお座りになって下さい」

 源三郎が着席すると、紳士は女中にコーヒーを淹れるよう命じておりました。

「すみません、水を一杯お願いします。睡眠障害を患ってまして」

「おおそうですか。そのように頼みます」

 後半は女中へ向けて申しております。

 居住まいを正した紳士が申し上げます。

「この度は娘を救ってくださりありがとうございました」

 机につかんばかりの低頭でございます。

「いえ、大したことではありませんから」

「いや身を挺して見知らぬ娘を助けるなど、なかなかできることではありません」

「いやいや」

 暫し同音の応酬がございました。

「ああこれは失念しておりました。私は立花金之助(きんのすけ)と申します。帝大で文学の教授をしております」

「ん?」

「む?」

 源三郎の予想している苗字とは異なっておりました。

「いえ失礼、自分も橘と申します。木へんの、柑橘系の橘源次郎です」

 無自覚に申してから、源三郎と言ったほうが良かったのだろうかと逡巡致しました。結局のところ、長年親しんだ自らの名前よりも、邪神の顔を優先して立てる要もないだろうと至りました。

「橘源次郎さん」

 確認するような口調でございました。

「へえ。奇妙な偶然があるものですな。ウチは立つ花で立花です」

 年齢の割にどこか子供のような無邪気さを残す金之助は、恐らく悪意無く尋ねるのでございます。

「生業は何を?」

「今は……無職ですね」

 金之助は意外そうでございます。

「身綺麗でらっしゃる」

「国に戻ったばかりですので」

 嘘ではございませんが、返答にもなっておりません。有体に申し上げれば不審人物極まりありません。

 金之助は、ははぁ、と何やら心得た様子でございます。

「大陸浪人だったのではありませんか?」

「タイリクロウニンとは?」

 大陸浪人とは、この時期に諸外国へと旅立った者達のことを差します。その目的は様々で、政治的活動もございますれば、ただ単純に日銭稼ぎのため、または外国で一山当ててやろうかという者までおりました。その始まりは諸説ございますが、改易された武家が自らの腕を奮う場を、平和な日ノ本でなく、諸外国へと求めたことに由来するとされております。

 概ね堅気の人間のやることではございません。

「まぁ結果的にはそのようなものだったのかもしれません」

「ちなみにどちらに? 支那ですか?」

「いえ、中東――と申し上げて伝わるかわかりかねますが」

「中東!? それはまた随分と遠くまでお出でになったのですね」

 感心しきりといった様子でございます。

「お幾つの頃から?」

「一六の年です」

「今お幾つで?」

「二五です。今年二六になります」

「数えで十年ですか」

「そうなりますかね」

「治安はどうでしたか? 文化風俗はどのように違いましたか?」

「ええと」

 立て板に水とばかりの金之助でございます。言葉を濁す源三郎に、金之助は大仰に平手で額を打ちました。

「いや失礼、あれこれ尋ねすぎましたな。学者という者はこれだからいけない。何分民俗学が趣味なものでして。不調法をお許しいただきたい」

「あまり役には立てなさそうです。荒事ばかりでしたので」

「でしょうなあ。ある国は革命中だと聞き及んでいます」

 源次郎は、この時代の中東情勢を存じません。

「お荷物が少ないと聞いていますが、ご逗留先に置いてらっしゃるので?」

「いえ、逗留先といったものはないです。着の身着のままですね」

「ご実家は?」

「新宿に。今あるのかはわかりませんが」

「新宿町なら隣町ですね」

 ここは東京市は牛込区、立花金之助の邸宅内の離れでございます。

「あるのかわからないと言いますと?」

「両親がいません」

 この時代には、とは申せませんでした。ですがそれは、いるはずのない少女がいたのですから、あくまでも源三郎の憶測にすぎません。

 金之助はふむ、と一つ唸ると、

「ではしばらくはこちらに逗留なさるとよろしい」

 素性の知れないごろつきを、屋敷に住まわせると申しました。金之助の後ろに控えていた女中は目を丸くしております。

 一瞬何を言われたのか分からなかったのは、母国語を見聞きせずに久しいからだけが理由ではございませんでした。

「危険だとは思わないんですか? 娘さんや家政婦さんもいらっしゃるでしょうに」

「おや、娘や女中になにかするつもりですか?」

 言葉とは裏腹に、口調はおちょくるようでございます。

「滅相もない」

「こちらからお願いしたいくらいなのですよ。男手が足りないのです。書生は普段学業に勤しんでますし、家令は高齢ですから」

「男手くらいしかお返しできない能無しですが?」

「ご自身を能無しと断ずる能があるではありませんか」

 源三郎は、このまま流されてよいものかどうか判断に迷っております。

「それにそもそも助けられたのはこちらですよ。お忘れですか?」

 閉口しております。

 この一連の流れが、所謂邪神の『お膳立て』だろう見通しはございます。だからこそ抗うべきか、委ねるべきかを決めかねております。

「源次郎さんとお呼びしても?」

「はい」

「あなたは恐らく心身ともに疲弊しています。どこか草臥れたように見受けられます。休養が必要なのだと思いますよ。今後の身の振り方を考えるのにも、当家は悪くない環境かと思うのですが」

 それはその通りでございました。

「……ご厄介になります」

 源三郎は躊躇いがちに言って頭を下げております。

「礼には及びません」

 一連の流れに釈然としない思いを抱えながらも、源三郎はこの子供っぽい、しかし油断ならぬ金之助の慧眼に、身を引き締めたのでございます。

 持たぬ間を埋めるよう源三郎は口を開きました。

「ところでこのサイズの服、よくありましたね」

「ええ、先程言いましたが、丁度似たような体格の書生がいるのです。彼のために用意したものですが、差し上げます」

「いえ、それは悪いですよ。こんな上等な物」

「構いません。また買えばいいのですから」

「ご息女に怪我は?」

「お陰様でありません。誠にありがとうございました」

 歓談を背景に夜は更けていきます。

 記憶の中の少女の父親も源次郎は知っておりますが、この立花金之助なる人物とは、名前も容姿も全く異なっておりました。

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