インスマスの夜・一
ホテル義流間の造りとしましては、源次郎は昔に映画で見た米国のモーテルのような印象を抱いておりました。看板だけの飾り気のない建物に、それほどの広さがないロビー。掃除が行き届いておらず、隅にはゴミや汚れが染みついております。
受付では二人の男が談笑を交わしておりました。一人はカウンターの奥にいる洋装にジャケットを着た従業員と思しき人物で、もう一人はただの顔馴染みなのでしょう。男は三人の存在に気が付くと、従業員に一声挨拶を残し、三人へと不躾な視線を送りながらホテルを出ていきました。
彼らは二人とも、インスマス面でございましたが、この従業員だけはいくらかはマシでおり、頭髪もあり、目玉の凹凸も激しくはありません。
「どうぞ旦那方。私は当ホテルのオーナー、義流間と申します。こちらにご署名をお願いします」
声だけは他の住民たちと同様しゃがれておりました。
源次郎が「田中三郎」「鈴木和重」「佐藤ウメ」と、当然のように適当な偽名をでっち上げています。近寄れば、義流間の体からも魚の臭いが漂っております。
そして源次郎の鼻腔は、その魚の臭いに混じる馴染みの深い臭いを検知しておりました。
その時のことです。先程出ていった男性が呼ばわる声が致します。
「おい義流間! ちょっと来てくれ!」
「後じゃ駄目かい? 今接客中なんだ」
「今すぐだ!」
客なんて放っておけとでも言うような口調でございました。
「すみませんが旦那方、少々こちらでお待ちくださいませ」
「ああ、急がなくていいですよ」
「お気遣いありがとうございます」
義流間の背中を見送ると、源次郎はカウンターの内側へ入っていき、壁に掛けられた鍵をいくつかポケットに仕舞いました。
「何をしているの?」
「ちょっと源次郎さん……この臭いは」
医学生である銀之助も気が付いたのでございましょう。
「二人はついて来るな。義流間が戻ってきたら適当に誤魔化しておいてほしい」
「適当に誤魔化すって言ったって」
穂波の抗議の声を背中に受け、源次郎はカウンターの横に設置されているスタッフルームであろう扉の鍵を開けて部屋に侵入致しました。
明かりをつけてもなお薄暗い室内は半ば物置と化しているのか、雑多な紙束や道具に満ちておりました。
臭いの元を辿ると、どうにも向かって左側からしているように感じられました。そちらの方向には鉄扉がございます。近寄れば、確かに臭いはそこから漂ってきております。
再び鍵を開けると、扉は地下に通じておりました。打ちっぱなしの造りのためか、少し冷えております。頼りない白熱電球の照明を頼りに地下へと進んで参ります。
突き当りにはまた鉄扉があり、そこには鍵は掛かっておりませんでした。蝶番が錆びているのか、慎重に扉を開けると嫌な音が響きました。
薄明りの中で最初に目に入ったのは、手術台のような台座に乗せられた首のない男性の死体でございます。臓腑は抜き取られ、血も取り除かれているのか、血が滴っているような形跡はございません。しかし、その台座の足元には大量の血液の跡が残されておりました。
台座の上の死体には両腕がなく、また右足もございませんでした。左足は根元から切断されており、皮が剥がされております。雑に台座の上の空いているところに打ち捨てられているような風情でございました。
切断面を覗いてみると、肉を削ぎ落している途中であるかのような形跡が窺えます。部屋の傍らを見れば、もう一方の台座の上に、ぶつ切りにされた肉がございます。あくまでも目算に過ぎませんが、成人男性の両腕と片足くらいの量でございましょうか。
それはまるで食べやすくするように骨を取り除き、食肉用にぶつ切りにしたような状態でございました。
部屋の隅に置かれていた縦長のオフィス棚からはみ出していたのは、人間の首でございます。青黒く変色しており、棚を開けると奥にもう一つ首がありました。
人相こそ変わり果ててしまっておりますが、例の家族の父母の、見るも無残な姿でございました。
源次郎は痕跡を残さぬように部屋を出ていきロビーまで戻ってくると、鍵を直しながら申しました。
「やっぱり金を貰っておくべきだったぞ、銀」
「何がありました?」
「件の両親だったもの」
「どういうこと?」
「どうにかして今すぐ立ち去るべきだと思うね。この村はおかしい。ヤバい気配がずっとしてる」
「ヤバい?」
「危険な兆候がずっとあるように感じられてると言っているんだ。決定的だったのは地下で見たやつだけどな」
「危険な兆候って……結局所長のことはどうするつもり?」
「諦めろ」
「諦めろって……さっきは協力するって言ったのに?」
「そういう気になるっていっただけだ。気が変わった」
言うや否や、源次郎は鍵を引っ手繰り、穂波を俵のように抱えて再び地下室へと赴きました。「降ろしなさい!」と喚いていた声も、途中からは異臭にかき消され、黙って身を任せておりました。
地下室へ着くなり、源次郎は乱暴に穂波を地面に立たせました。血と臓物の臭気が残る室内は現実感に乏しく、時間の経過が緩やかに感じられました。
「これがこの村で行われてる所業だ。恐らく旅行者を食ってる。このまま泊まると危険だ。わかるな?」
穂波は目の前の常軌を逸した景色に放心しており、返事はございません。
「吐くなよ。戻るぞ」
再度抱えてロビーまで戻ります。帰りは気持ち優しく抱えておりました。
「降ろすぞ、立てるな?」
穂波は多少ふらつきながらも、頭に片手を添えて立っております。その様子を確認すると、源次郎は鍵を戻し、カウンターの外へと戻りました。
丁度その時、建物の入り口から人の動く気配がいたしました。義流間でございます。様子のおかしい三人を眺めて尋ねます。
「どうかなさいましたか?」
「いえ、少し連れの調子が悪いようでして」
「それはいけませんね。こちらが鍵です。お部屋は二階の三室です。ゆっくりとお休みになってください」
後ほど銀之助の部屋で集合することに決め、それぞれの部屋に別れていきました。二階は三部屋しかないようで、貸し切り状態でございます。もっとも上に登る階段もございますので、完全な貸し切りではございませんが。
室内は、中で部屋同士が繋がっている構造をしておりました。
源次郎は荷物を備え付けの机の上に置くと、部屋の物色を始めました。衣装棚には何故か無意味に閂が後付けされており、ネジを指で回すと簡単に取れました。
金具を持ったまま部屋の入口のドアを調べると、閂が取り付けられていた痕跡がございます。金具を添えてみると、形もネジ穴の跡とも一致しておりました。源次郎は指でネジを締め、扉に閂を移しました。多少の時間稼ぎ程度にはなるでしょう。
窓の外を眺めると、欄干のない露台がございました。
源次郎は部屋の中の扉をノック致します。こちらの扉にも閂がついております。源次郎が自室側の閂を外すと、向こうからも同じ音がいたしました。
扉から顔を出した穂波は、いくらか顔色を取り戻しておりました。源次郎は穂波の部屋でも同じ作業を行うと、銀之助の部屋へと向かいます。
銀之助の部屋では、同じ作業を行いながら相談しております。
「一刻も早くこの村を出る。異存はないな?」
穂波からの応答はございませんでした。
「一体何を見せたというのですか?」
「ぶつ切りにされた人体の山だ。恐らく食べるために骨を取り除いて刻んでる。ここに泊まった余所者をそうしてるんだと思う。写真の両親の首は確認した」
穂波の存在があるため、昭一という名は出しませんでした。専門の生業としておりませんので発生いたしませんが、源次郎が気にしたのは所謂守秘義務でございます。
「それは……しかし、探偵事務所の所長さんはどうなさるおつもりで?」
「人にかまけてる場合じゃない、見捨てていく」
「ダメ」
発したのは穂波でございます。
「多分、ダメなの。あの人を見殺しにしたら、きっと大変なことになる」
「どういうことだ?」
作業を終えた源次郎が振り返ります。
「言えない」
「何かしらの守秘義務に引っかかるってことか?」
返答はございませんでした。思い当たる節もございません。
「大変なことにはもうなってるんだがなぁ」
警察の介入しない極度に排他的な異教の村で、死体を発見しております。
「どの道脱出手段はいる。銀、なにかあるか?」
「僕のものと同じ車が見つかれば、或いは」
当時最も多く日本に輸出されてくる車の鍵は共通規格でございました。銀之助が自分の車の鍵を持っているので、同じタイプ、同年代の車でさえあれば、動かすことは可能でございます。
「車を探すしかないか」
否定も肯定もございませんでした。
源次郎は、一人で一階の様子を窺いに参りました。足音を忍ばせて階段まで差し掛かると、話し声が聞こえてまいります。源次郎は片膝を落とし、なるべく頭を低くして声に意識を集中させます。
「今回のお客さんはどうだ?」
知らないだみ声でございました。
「大男が二人に女が一人。女は体調を崩しているらしい」
義流間の声でございます。
「抵抗されると面倒だ。さっさとこれでカタをつけちまおう」
手すりから覗き込むと、義流間を含めた男が三人おりました。義流間以外の男二人はそれぞれに猟銃と散弾銃を所持しております。
「いつも通り、夜になってからだ。物音がしなくなったら呼びに行く」
「女は美人だったか?」
「可愛らしい別嬪さんだったよ」
極めて不快な野卑な会話を聞くことに耐え切れず、源次郎は銀之助の部屋へと戻っていくのでありました。
「駄目だ、連中夜にでも俺らを襲うつもりらしいが、あの様子じゃいつ来てもおかしくない。猟銃と散弾銃を持ってた。すぐにでも出るぞ、音を立てるな」
申して源次郎は部屋同士を繋ぐ閂を締め、全員を部屋から退出させて、物音を立てぬように部屋の外から鍵を掛けました。せめてもの悪あがきでございます。
穂波の部屋にも同じ措置を行い、源次郎の部屋まできて内側から鍵を閉めました。窓を開け、露台の上に立ち、路地裏である周囲に人影がないことを確認すると、
「銀、下りられるか?」
そう申しました。
「地面にですか?」
「手で足場を掴んで、こうやって降りるんだ」
源次郎は足場にぶら下がって足先を地面に近づけて、そのまま路地裏に飛び降りました。
「穂波さんはどうするのですか?」
「適当にそっちで降ろしてくれ。こっちで捕まえる。早くしろよ」
周囲にはまだ人の姿はございませんが、いつ来るとも限りません。
銀之助は穂波の両手を掴み、
「痛かったらすみません」
申して持ち上げ下へとゆっくり降ろしていきました。
「いいぞ、放してくれ」
同時に穂波の体は瞬間宙に浮き、源次郎に上半身と尻をがっしりと抱きかかえられました。
「大丈夫か?」
「大丈夫」
穂波を退かせると、銀之助も源次郎と同じようにして降りて参りました。
「二人は車を探してくれ。俺は警察署を調べてみる。だが証言元が当てにならない。無駄足だったら諦めてもらうぞ」
「え?」
あれだけ警察署への侵入を嫌がっていた源次郎が意見を翻したのです。穂波は本気であるのか疑っておりました。
「どこで合流するのですか?」
銀之助には動揺した様子もございません。なんだかんだ頼みごとに弱い源次郎の性格を知っていたからでございましょうか。
「この路地の突き当たり、ホテル前の広場、会館側の隅で集合だ。不測の事態に見舞われたら、派手に騒げ、こっちもそうする。
最悪俺は見捨ててもいい、合流が難しいようなら二人で逃げろ」
二人が目を瞠っておりました。
「なんで急に、そこまでしてくれるんですか?」
源次郎は語るのを躊躇うようでおりましたが、やがて訥々と申します。
「……昔、『男は女のわがままを聞いてやるのが仕事だ』って言ってた人間がいてな。それを思い出しただけだ」
「それだけ?」
源次郎は少々気分を悪くしたようです。
「それだけって、それだけだが?」
何か文句があるのか、と続きそうでございました。大事な英国人との思い出を汚されたようで、拗ねております。
「所長の名前は?」
穂波はまだ納得がいっていなかったようですが、
「秋山義治です」
少しの間をおいてからそう申しました。
「アキヤマヨシハルだな」
「あの」
「なんだ?」
何かを言い出そうとして言い出せないような、そんな素振りがございました。
「……どうか、お気を付けて」
「そっちもな。今日は満月だ。その分影ができている。なるべく影を、姿勢を低くして歩くんだ」
申して立ち去る源次郎でございました。満月に照らし出された空は明るくありましたが、その背は路地の闇に充分に紛れておりました。




