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無貌の神の転移奇譚  作者: 小峠 通


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源一郎・四月二日・二

「若先生」

 そんな女性の声が届いたのは、水を飲み干すとほぼ同時でございました。

「どなたですか?」

 立ち上がり、努めて平静に源一郎は申したつもりでしたが、声色や面相は不自然そのものの有様でした。生来より良き嘘も悪しき嘘も苦手な馬鹿正直でございます。

 夕暮れに照らされた入り口にたたずむ女性の影に、源一郎は警戒を強めておりました。姿が判然と致しません。

「あたしですよ。ツルです」

「ツルさん」

「おつるです」

「おつるさん」

 些か惚けたやり取りの最中にも、三和土まで侵入してきた女性と、彼女に付き従う小さな影に注意を払っておりました。

 ツルは上がり(かまち)に腰かけて畳まれた提灯と古びた土鍋を置き、小さな影こと子供の頭を一撫でしております。

 微かに臭気が漂ってまいりました。源一郎よりも若く映るツルは草臥れた着物を身に着けており、なるべく身綺麗にしているような努力の形跡が伺えますが、清潔とは言い難い装いでございます。子供はより汚れており、足回りには土の乾いたような形跡がございます。より不潔な環境に慣れていた源次郎としては、さほど気に留めたことではございません。折角掃除した部屋が汚されるのが気掛かりではございましたが。

 ツルは手拭いで我が子の足を拭き取ると、玄関側部の板の間へと促しております。

(さてこれはどういう状況なのか)

 身動ぎせずに立ち尽くしている源一郎をそっちのけに、ツルは勝手知ったる他人の家なのか、地袋から食器類を取り出しております。

「あー、おつるさん?」

「はぁい」

 ご機嫌な様子でございます。

「その、自分はちょっと記憶が混乱しています。この状況はなんですか?」


 ツルは食事をしながらさして怪訝な様子も示さずに説明を致しました。

 土鍋が食事であること、またその材料は長屋の住人で出し合って炊出しているものだということ。源一郎は金を出す代わりに医療を提供しており、筋ものからは吹っ掛けること。また昨年ツルの亭主が感冒にかかった際、源一郎の治療で事なきを得、そのことを感謝していることを申しました。

(カンボウ、監房、感冒、インフルエンザか)

 ものの本で読んだことがございました。この頃の日本では、流行性感冒の集団感染がありましたことを。

(んー、しかし)

 少なくとも昨年から『橘源一郎』なるモグリの医者が存在していたことになります。或いはツルがそのように思いこまされているだけなのか、はたまたツルの中身が例の邪神である可能性も捨てきれませんでした。

(都合が良すぎる。これがお膳立てなのか)

 この貧乏長屋では、急に現れた挙動不審の大男を新参者として受け入れることなど考え辛く思えます。

 いい加減理解不能な全ての事柄を邪神のせいにしてしまおうかと源一郎が考えていた折、視界の隅から小さな手が伸びてきておりました。反射的に仰け反りそうになった肉体を圧し、頭を賑やかにされております。

「若先生はうちの子にも良くしてくださったものね」

 人見知りをする性質なのだというこの子は、源一郎の短髪を撫でたり掴んだりと楽し気でおりました。

 源次郎は、極度に子供が苦手でございます。身の回りにおらず、どう反応して良いものか判断しかねておりました。何より自分のような汚れた者が触れてはならないものだという認識すらございます。

「偏食なのは変わりませんが、こうして元気でいられてます。お肉しか食べませんので、食費が嵩むったらないですけどね」

 ウチの宿六の薄給だけじゃ賄えません。申して親指を内に握り拳を作った様は、素人離れでございます。

 思い返せば、確かにこの子は鍋から肉しか食しておりません。鍋である以上、野菜の栄養価はスープにも多少は流れます。それを食べているのだから、大丈夫なのだろうと源一郎は思いました。褒められたことではございませんが、他所様の子の嫌がる物を無理に食べさせるのも躊躇われます。

 偏食であるというのに、肌艶が綺麗なのは子供が故でしょうか。汚れていても、中世的で端正な顔立ちをしていることがわかります。

「先生さえ宜しければ、明日までに十六くらいに育てておきますよ」

 冗談でございましたが、源一郎には通じておりませんでした。

「何がですか?」

「いやですよ、この子を嫁にって話です」

 噴飯し、源一郎は箸をおいたのでございます。

「お口に合いませんでしたか?」

「いえ、ちょっと食欲がないんです」

 少し口をつけただけで、食欲は満たされておりました。

「医者の不養生ですこと」

 苦笑が込み上げておりました。

「全部食べてしまってください」

「全部って言われてもねえ。鈴木さんなら食べられるかしら」

 座りの悪さを隠すよう、源一郎が申します。

「旦那さんは、まだお仕事で?」

 食器を拭いているツルの動きが停止しました。源一郎は、食事を持ってきてくれたことには感謝しておりますが、早く帰ってほしいというのが正直なところでございました。

「先月から帰ってきていません」

 この話もしましたけどね、と軽く笑っておりました。

「それは……失礼を」

 互いに顔を伏せた気まずい静けさのなか、子供は不思議そうに大人二人を眺めておりました。

「どうせふらりとどこかへ旅でもしているんでしょう。そのうちひょっこり顔を見せますよ。そうしたら、こうやって殴ってやるんです」

 言ってお道化るツルは、先行きの不安を隠しきれていませんでした。

「変に疑われても困りますので、早くお帰りになったほうがよろしいかと」

 一瞬何を言われたのかわからないようでいたツルは、

「いやですよ先生、こんな人妻のイモ相手になにがどうなるっていうんです?」

 申してころころと笑っておりました。

 ツルは決して醜女などではございません。子供に遺伝したように、ツルもまた整っており、朗らかな性格にも愛嬌がございました。

「旦那さんと、世間体が悪いんです」

 そろそろ日没もかくやという時間でございます。

「はいはいわかってますよ。そろそろ患者さんがくる頃ですものね」

 稼ぎ時の話でございましょうが、患者が来るであろうことは理解できましても、源一郎はいまいちその真意が掴めずにおりました。

 ツルと子供を近くの家まで送り届け、源一郎は家で一人、稼ぎ時とやらを待っておりました。

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