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無貌の神の転移奇譚  作者: 小峠 通
二章・漁村にて

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健全で怠惰な日々の終わり

 橘源次郎は武道着姿で日課としている早朝のランニングを行っておりました。立花邸の居候となってから季節は廻り、早朝にはもう肌寒さすら感じられます。

 現代の本格的なトレーニング施設や訓練設備がないため、往時(おうじ)よりの体力の低下に悩まされております。手製の背嚢(はいのう)――リュックサックに詰めた一斗缶の重しを増やすべきかを思案しながら走っておりました。


「おはようございます、今日も精が出ますね」


「おはようございます、お疲れ様です」


 最早顔馴染みとなった門前の掃除をしている婦人に声をかけられ、挨拶を交わしておりました。源次郎の暮らしぶりに、周囲は「立花家の食客の武道家」という認識をしている始末でございます。働きもせず、無駄に体を鍛えてばかりいるのです。


 立ち止まり、背嚢から取り出した一斗缶から豪快に水を摂取し、再び走り続けます。現代と気候が異なるとはいえ、汗まみれでございました。

 本日も重しを背負い、日の出前から二時間ほど走って帰途につきました。






「今日という今日は言ってやりますわ!」


 女学校の制服に身を包んだ立花(ゆかり)は、そう息巻いております。立花家の邸宅内を連れ立って歩くのは、源次郎と同様極めて体躯に恵まれた、縁の婚約者である黒田銀之助でございます。二人の身長差が著しいため、銀之助はゆったりとした足取りで縁の後ろを歩んでおります。


「源次郎さんは精神的に疲弊していると言っているじゃないですか。それは金之助先生も知るところですよ?」


「だからといって、半年以上経っても何もしないなんておかしいですわ。体は健康そのものなのに」


「心の健康を損なっているのですよ」


「それが分からないのです。心の健康って、なんなんですの? 酷く落ち込むことくらい、誰にでもありますわ。それでも立ち直って生きていくのが人間じゃありませんこと?」


 銀之助は言葉に詰まってしまいます。まだ未成年である縁は勿論のこと、医大生である銀之助も、知識としての精神的な疲弊、精神疾患のことは知っていても、実感としては分からないのでございます。そしてそれは幸福なことでございました。


 まだ精神的な病理の理解に乏しい、大正時代の出来事でございます。


「とにかくあまり追い詰めるような言葉は選ばず、穏やかに提案してくださいね?」


 提言を辞めるよう説得するのは諦めておりました。こうなった以上、立花縁という女性は止まらないということを、銀之助は知っています。

 それに、縁に言い包められる源次郎の姿が想像できませんでした。逆ならば想像は容易でございます。


「……善処しますわ」


 邸宅を出て、源次郎の住まう離れに到着しておりました。小鳥の囀りが朝を告げております。

 電鈴を鳴らすと、程なくして二階の窓が開け放たれました。武道着姿で、手拭いを首からぶら下げた源次郎が顔を覗かせます。


「朝から二人揃ってなんだ?」


「お話があります。上がってもよろしくて?」


 源次郎はあからさまに嫌がるような顔をした後、


「どうぞ」


 ぶっきら棒にそう残して引っ込んでいきました。


 縁は女中から預かった離れの鍵を差し込むと、肩を怒らせて敷居を跨いだのでございます。銀之助も後に続きました。




 初めて訪れた源次郎の部屋は、用途不明な道具器具の類に満ちておりました。雑多な道具に満ちていて、しかしそれらは纏めて整頓されており、秩序の影が見受けられます。


「見ての通り、走ってきた後だ。早いところ風呂に入りたいんだがね」


 夕方に源次郎を稽古に誘う銀之助は、彼が朝晩と風呂に入ることを知っておりました。そして早朝の日課のことも存じております。源次郎のその綺麗好きさ故なのか、室内の湿度の高さは感じても、汗に濡れた彼から体臭を感じることはありませんでした。


「源次郎さんは、これから先どうするおつもりなのですか?」


「どうするとは?」


「お仕事の話です」


 源次郎は縁の意図を察したのか、先回りして答えます。


「俺はキミの厄介になってるんじゃなく、金之助先生の厄介になってるんだよ。それに家賃はいれているし、君たちの英会話の話し相手にもなっているし、家の雑事もこなしている。文句を言われる筋合いじゃないと思うんだが」


 事実として源次郎の教えにより、二人の英語力は上がっておりました。もっともそれは現代で使われているイギリス英語でございましたが。


「大の男が日がな一日体を鍛えたり物を作ってばかりいて、定職に就かないのは如何なものかと思いますわ。このまま仕事がなければ所帯を持つこともままならないのではありませんこと? いい年齢(とし)ですよね源次郎さんは」


 子供であるが故なのか、ずけずけと物申します。


「だからキミに言われることではないと。

 大体如何なものだってのは、キミのその口調こそだと俺は思うがね。所謂てよだわ言葉だったか? 似合わない真似はするものじゃない、後々後悔するぞ」


「な……っ!」


 ここまでかな、と銀之助は思いました。


「まぁまぁお二人とも落ち着いて。

 源次郎さん、貴方は縁さんの仰るように定職に就いていない。なのにお金は持っているふうですね。出所を伺ってもよろしいでしょうか?」


 室内の様子からも、源次郎が金銭に不足していないことは明らかでございました。家主である金之助に金をせびっていることも見たことがなく、金之助からそのような話も聞かされておりません。また、源次郎がそのようなことを良しとするような人物であるとは銀之助には思えませんでした。


「犯罪の類で稼いだ金じゃない。ここに来て少ししてからちょっとした仕事をして、その報酬を貰ったようなものだ」


 その金は源一郎の遺品でございましたが、源次郎には察しはついていても確証はございませんでした。


「犯罪に手を染めていないのであれば僕としては結構です。縁さんも、ここは一先ずそれでご納得いただけませんか?」


「……銀之助さんがそう仰るのなら」


 不承不承といった風情でございました。


「さっきも言った通り、汗をかいている。話が終わりなら、風呂に入っても良いか?」


「ごゆっくりどうぞ。お邪魔を致しました」




 離れを後にした二人は、中庭で話し込んでおりました。


「前にも申しましたが、精神的に疲弊している源次郎さんを責めるような振る舞いは看過できません」


 銀之助にしては珍しく、縁に対して責めるような口調でございました。


「でも不健全ですわ」


「健全、不健全は他者に定められることではないのです。

 それに、精神疾患はいつ誰が発症してもおかしくない病気なのですよ。明日にでも僕がそうなってもなんら不思議ではないのです。精神的に弱って学校に行けなくなってしまった僕を、縁さんは不健全だと責めますか?」


 さすがは帝大医大生といったところでございましょうか。先進的な考え方でございます。


「……私には分かりません」


「きっとそのうち分かるようになりますよ。その為の助力なら惜しみません」


 銀之助は教育のダシに使ってしまった源次郎に心の中で詫びながら、縁の肩に手を添えて邸宅内へと導いていきました。

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