源一郎と源三郎・五月一日
朝焼けが、竹林を優美に照らしております。夜のうちに柔軟を済ませた源一郎は、数日間をこの竹林で過ごしたことによって体力を消耗しておりました。心も疲弊しているといって差し支えない状態にございます。
最後の干し肉を食べ終え、水で流しております。排尿も済ましておりました。
小鳥が飛び立ち、野原へと舞い降りました。しばらくするとカラスがやってきて、小鳥は追い立てられるようにして飛び去っていきます。そのうちカラスも源一郎の頭上を飛び越えていき、姿を消しておりました。
最早垢に塗れた自らの臭気さえ気になることはなく、ただ自然と一体化しておりました。
結局源三郎はここに伏せってはおりませんでした。馬鹿馬鹿しく思う自分の心を圧して溶かしていきます。
風が吹き、竹林を騒がしく揺らしております。穴から這い出てきた筍ともいえない竹の先端を剥き、中の比較的柔らかな部分を噛み切ります。最後の水で流し込み、源一郎は準備を整えておりました。
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鉛のような体を引きずり源三郎が目を覚ますと、鳥の囀りが聞こえておりました。
充分に柔軟を施し、朝の支度を整えると、格技場へと向かったのでございます。
「今日が五月一日ですね」
源三郎を投げながら、銀之助が申します。
「縁さんは随分楽しみにしているようでしたよ」
源三郎が投げております。
「楽しめるようなことじゃないんだがな」
「では一体何をしに?」
「んん、俺は一体何がしたいんだろうな?」
強いて申し上げるのならば、一目会わせてやりたい親切心、でございましょうか。
「食事は済んだのか?」
「いえ、まだです」
「なら行ってこい」
一礼をしあい、銀之助は邸宅へと向かおうとして、
「源次郎さんのお食事は?」
「俺は朝は食べない」
「そうですか」
言い終え立ち去ったのでございます。
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源一郎は焦れておりました。約束の時刻は昼の十二時でございます。日の位置を見るにまだ二時間ばかり前でございますが、焦燥感に身を駆られておりました。
緊張は僅かな違和を齎します。よろしくありません。
源一郎は僅かに開いている空間をさらに開け、空気を深く肺の中に取り入れました。同時に風が新鮮な空気を運んでおりました。源一郎は充分に呼吸を整えると、空間を戻し、再度隠れて野原を視界に納めております。
気配と焦れは消え、思考が鮮明になっていきました。
(ただ平静に)
自然の一部と化しています。
昼日中の日差しは強く、源一郎の体にも熱を宿しておりました。
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源三郎は周囲の喧騒を置いてけぼりに街を行き、ゆっくりと歩んでおります。
周囲には西洋風のコンクリートのビルが建ち居並び、車の騒音や行き交う人々の靴の音、ハットケーキの売り子の高い声が混じり合い、平素の人間の営みを感じさせるのでございます。
市電が通り過ぎていきました。中には日曜日だというのにはちきれんばかりに人が押し込まれており、乗客は吊革につかまっていて、また折り重なるようにして座っております。
これから殺し合いに行く人間がいる、などとはつゆにも思わぬ人々でございます。
東京市のはずれまで差し掛かると、源三郎は江戸の情緒を残す日本家屋に挟まれる狭い住宅通りを進むのでございました。
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源一郎は人の気配を感じ取りました。二人、いえ三人の気配物音がございます。
微動だにせずにいると、行楽でも楽しんでいるのか、視界外、やや左方向から時折笑い声が聞こえて参ります。
身も心も極限状態に近い源一郎は、それでも無心で潜んでおりました。
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「ピクニックだなんてハイカラね」
縁は申して笑んだのでございます。
白昼の強烈な太陽の日差しを浴びた鮮やかな緑は空の青さを際立たせており、暖かさを帯びた草の匂いの混じった風が頬を撫でております。
「縁さん、あまり走ると危ないですよ」
銀之助の姿もございます。
「平気よ。私だって薙刀を習っているんですもの」
運動神経には自信がある、と二人の前で申しております。
源三郎は黙して竹林を眺めておりました。
「どうしました?」
頭を振るのみでございました。
「ここで食べましょう? 折角千代子さんが早起きして作って下さったんですもの」
千代子とは、初日に金之助の背後に控えていた女中頭の名前でございます。
縁は一等景色を眺められる場所を陣取って申しておりました。
「源次郎さんも手伝ってください」
「ああ」
三人は歓談しながら昼食を楽しむのでございました。
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(なんだ?)
男が二人と女が一人。女の声は、どこかまだ良かった頃の生活を彷彿とさせる声でございました。
少しずつ身を捩らせて視界を変えていくと、そこにはやはり二人の男性と、はしゃぐ少女の姿がございます。
うち一人は源三郎で、もう一人は知らず。そして視界は少女の容姿をはっきりと捉えてしまいました。
(……馬鹿な)
在りえない人物と談笑している源三郎の姿に、源一郎の心は怒りに震えておりました。
(何故そこにいる)
自分こそがそこにいるべきだ、と首元に青筋を浮き立たせておりました。
時刻は丁度昼の十二時でございました。
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「このカツレツのサンドウィッチ、とっても美味しいです」
「こぼれていますよ」
二人は舌鼓をうっておりました。源三郎だけが口に物を運びません。
そういえば、この方が食事をなさっている姿を見たことがない。そう至った縁は、いたずら心に任せて源三郎の口に放り込んだのでございます。
一度口に入れたものを出すのも躊躇われ、源三郎はきっちりと咀嚼して飲み下しておりました。
「やめろ」
「はい、次です」
「銀にやってやれ」
銀之助は口を広げて待っております。
縁はそこへ次のサンドイッチを持っていくと、直前で自分の口へと運んでおりました。
「ひどい!」
「えへへ」
はにかむ笑みは、年相応の少女のものでございました。
「はしゃいでるな」
「だって嬉しいんですもの。源次郎さんがこうしてお誘いくださるなんて思わなかったものですから」
「こういうことをしたかったわけじゃないんだが」
「縁さんが楽しんでいることが僕は嬉しいです。ですが、あまり走り回ると帰りが心配ではありませんか?」
「大丈夫ですわ。これでも私健脚ですもの」
二人は笑みを浮かべております。
源三郎が居心地の悪さを誤魔化すように懐中時計を取り出すと、時刻は丁度昼の十二時を示してありました。
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(ふざけるなよ!)
周囲への擬態の意識は、もうそこにはございませんでした。
(どういうつもりだ!)
怒りの感情はいつしか獰猛な笑みとなり、源一郎の体を内からも蝕んでおります。
(何故そこにいる?)
邪神の悪戯心でございます。
(何故そこにいるのがお前なんだ!?)
異なる環境でございます。
首筋は血流によって膨れ上がり、手足は震え、顔色も変わっておりました。
自らの体が異音を響かせ、激痛を伴なって変容していくことも気に留めずにいる有様でございます。
またルール違反もありました。
煮えたぎるような激情に釣られた体は、最早人間の体裁をなしておりませんでした。源一郎の手足の皮膚はゴム状と化していき、鼻先は犬のように伸び、口元は横へと割けておりました。グール――食屍鬼の姿へと移行しております。
怒りに任せて飛び出した体は手足から崩れていき、竹林を出るころには全身からして粘土状へと変貌を遂げて崩れていったのでございます。
馬鹿らしい、殺し合いにもなりませんでした。




