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無貌の神の転移奇譚  作者: 小峠 通
一章・転移とコピー

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源一郎・四月下旬・二

 いつしか源一郎は完全に竹林の一部となっておりました。木々の騒めき、小鳥たちの訪れ、枯れ葉一枚の薙ぐ音。全てが五感と混じり合い、手に取るように理解できています。


 時間の概念すら消え失せ、あるのは僅かばかりの食欲と水を求める欲求だけでございます。


 ツルとツルの旦那らしき怪物への葛藤(かっとう)など、もはや微塵(みじん)も介在しておりませんでした。


 怪物の気配ですら、もう気に留めておりません。


 ただ流れていく空気と風の中で、己の存在を消し去り、自我すらもが消え、潜み伏しているのでございます。




 怪物が通っていきます。臭気にもなんの感慨(かんがい)もございません。


 また別の人間が山に入ってきます。気にした様子もありません。


 頬や手足を何某かの虫は這いまわっております。トカゲと蛇が横切っていきました。


 蝙蝠が、鳥が、イノシシが、周囲を警戒しながら散策しておりますが、源一郎に気付く気配もございません。


 山と同化した源一郎の存在は、最早何者にも捉えられずにおりました。




 同時に体力を消耗していました。換気のままならない状態での呼吸は細く、数日間同じ体勢でいた体は根を張ったかのようでいて、臓腑は弱々しく脈動(みゃくどう)を続けております。


 夜になって一度、周囲に生き物の気配がないことを感じ取ると、外に出て柔軟をしておりました。


 その容貌は不潔であり、細い無精髭(ぶしょうひげ)が乱雑に生えております。着流しには尿の匂いが染みついており、けれど源一郎はそれを気にした様子もございません。


 充分に体を動かし血の流れを整えると、再度待ち伏せの構えをとっておりました。






 いくらかの日数が経過した頃、夜の竹林の中を野犬が近づいて参りました。荒い呼吸音を立てながら、源一郎のいる方向へと一目散に走っております。


 様子がおかしいのでございます。犬というものは、己の最も優れたる嗅覚でもって周囲を捉え、把握します。ゆっくりとした足取りで、周囲の匂いを探りながら歩くものでございます。だというのにこの野犬は、竹林を避けつつも走っております。

 それは何かから逃げるようでございました。追い立てる何かは野犬と同じ程度に小柄でおり、源一郎の目前を通り過ぎておりました。


 一声、野犬の悲鳴が竹林に響き渡りました。後には獰猛な獣を思わせる荒い呼気と、次いで咀嚼音がいたします。


 思い立ち、源一郎は音もなく出ていきました。僅かに木漏れる月明りと音を頼りに獣に近づきます。


 獣は件の怪物でございました。廃ビルのものより小さなことから別個体であることが窺えます。獲りたての獲物に夢中なようで、源一郎に背中を向けて野犬を(むさぼ)り喰っております。


「おい、喋れるか?」


 渇き、久方ぶりに開いた喉は、張り付きうまく喋ることができません。


 途端怪物は牙を剝き、源一郎へと飛び掛かろうと致しました。源一郎はすんでのところで体を横に避け、怪物は竹に頭部を強かにぶつけております。


「喋れないんだな?」


 今度は正確に発語しておりました。


 獣は再度飛び掛かっております。源一郎はそれにぶつかるようにしてタイミングを合わせて飛び、獣の開いた顎の下に腕を回すと、そのまま怪物の首を固定し地面へ叩きつけたのでございます。


 人体とは構造が異なるのでございましょう。人間であるならば頸椎が折れているだろうそれに、怪物は耐えておりました。


 源一郎は決して腕を外さず、怪物の首を締め上げながら何度も鋭く捻りました。そのうち柔らかい骨の折れる感触がし、怪物からの抵抗がなくなったことを確認すると、それから一分ばかりそうしており、漸く源一郎は腕の戒めを解いたのでございます。


 怪物の遺骸を引きずって竹林を登り、いくらか開けたところに置いております。手頃な石を手に取り岩で叩きつけて石斧状にすると、怪物を腹を開きました。月明りのみを頼りに見た結果でございますが、外見以外さして人間と変わりなく思えるそれは、まだ子供のようでおりました。腹膜を切り開いて手で探り、内容物を確かめております。


 何の収穫も得られず嘆息した源一郎は、斧状の石でもって軽く穴を掘り、犬と怪物の遺骸に臭気が漏れない程度に土をかけて埋めたのでございます。


 石斧を懐に仕舞い、無精髭をこさえていた源一郎は元の場所へと再び身を潜めております。

 源一郎こそが、この夜を支配する怪物のような有様でございます。


 竹林のどこかで怪物の慟哭(どうこく)のような一声が上がりました。

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