源一郎・四月下旬・一
「しばらく留守にします。後のことはお願いします」
他の医師にも申し伝え、黒い着流しに黒い靴、黒いマスクを着用した源一郎は、荷物を背負って屋敷を後に致しました。
黄昏時に、目的の原っぱへと到着したのでございます。
竹林に踏み入り、原っぱを視界に納められる位置で風呂敷から竹筒と保存食を取り出し、小さな匙で地面に穴を掘りました。穴の中には竹になりかけている筍が一つ生えておりました。
枯れ葉を縫い付けた布団を上に被せて中に潜り込みます。竹筒の中には飲み水が入れられています。
外から見れば、完全に擬態しております。
蝙蝠の群れが空を舞い踊っており、時折風に煽られて遊ぶようでありました。
やがて陽が沈みました。鬱蒼と茂る夜の竹林に人の立ち入る様子はなく、まるで自らの存在までもが夜に溶け込んでいくようでございました。
懐かしい感覚に、フラッシュバックを引き起こしておりました。
かつて中東にいた頃、狙撃手の観測手として、源次郎はこうして周囲の自然に溶け込んだことが何度かございました。
(記憶は嘘を吐かない。俺が本物だ)
あの死に近しくも反吐が出るまでに凄惨でいた、しかし共に戦友たちと駆け抜けていった黄金時代は間違いなく源次郎のものでした。
(ヤツも同じことを考えるかもしれない)
既に源三郎も同じように竹林に伏せっている可能性は充分ございます。源一郎は思考すらも一旦放棄し、気配を絶ったのでございます。
陽が上り、辺りは長閑な小鳥たちのさえずりに満ちております。
水は口を湿らせるだけに留めています。着流しをずらして陰部を出し、穴の中に排尿しております。排便は夜のうちに離れたところで済ませ、土を被せておりました。
周囲に動物以外の気配はございません。
(早すぎたか?)
こと自然界への潜伏においては、安全が確保されているのであれば早すぎるということはございません。あくまでも体力さえ続くのであれば、でございますが。
(あまり気を張ってても長くは持たない。休めよう)
思って瞳を閉じておりました。
思い浮かべるのは、幼かった頃の日々でございます。無関心な父に無力な母。仲の悪かった貧弱な兄に、自衛官になれと虐待まがいの厳しい教育を施してきた祖父。
(なんだかんだ爺さんには感謝してるんだよな)
その教育は、その後の源次郎の生存に十二分に生かされました。いえその経験があったればこそ、その世界へと足を踏み入れられてしまったというのもございますが。
(今、この時代にいるんだろうか。祖父さんでもまだ生まれてないか)
改めて、祖父でさえ生きていないこの時代に自分がいるという摩訶不思議な体験に、何とも言えない感情に包まれておりました。
(眠れるなら少し眠ろう)
うつ伏せのまま顔の周辺に枯れ葉を集め、顔をその上に置いておりました。
夕暮れは過ぎ、夜となっております。
風に紛れるようにしてイノシシだろう干し肉を一口齧り、少量の水で流し込んでおります。
(まさかとは思うが、俺は今すげー無駄なことをしてるんじゃなかろうか)
布団を少しずつ僅かに上げ、外から動きを悟られないよう溜まった血流を解しております。
夜の闇に、ある少女のことを思い返しておりました。
かつての許嫁であり幼馴染の記憶の中の少女。喘息持ちで、常識人なようで変な性格をしていて、体が小さいのに、頑として決めたことには誰が相手であろうと譲らない娘。そして夏休みも終わりを過ぎて、家族旅行に出かけていった一家。
源次郎が国を出る切っ掛けとなった一家でございます。
(あいつも、これから生まれてくるのか)
その頃には立派な爺さんであろう自らを思い浮かべ、苦笑しておりました。なにがどうなるはずもございません。
(まぁそうなったらなったで、一目だけでも見られると良いな)
そのためにも死ぬわけには参りません。筍の新芽を剥いていき、先端部分だけを齧ったのでございます。
深夜、半分眠っていた源一郎の意識は何者かの気配によって呼び起こされました。
(きたか?)
枯れ葉の舞い散る音が近づいております。布団の前方だけを浮かせて正面を窺います。
ふと、嫌な臭気が風に乗って舞い込んでおりました。
(これは)
人間などではございませんでした。異形の手足が源一郎の目前を横切っていきました。臭気は強くなっております。
源一郎は頑として動かず、対象をやり過ごします。
暫くすると、穴を掘るような音が聞こえて参りました。やがてぺりぺりと皮を捲るような音がし、次いで汚い音がしておりました。
(他にもいるのかよ……どうなってんだ、この帝都ってのはよ)
日常のすぐそばに、怪物に化け物に邪神でございます。源一郎にとっては考えの及ばない状況でございました。
小雨が降り出しました。雨が竹や枯れ葉に当たる音に紛れ、怪物の気配が希薄になっております。
源一郎は、仮に薬を服用していたとしても眠れぬであろう夜を過ごしておりました。
朝方になって水を少量飲んでおりました。やけに乾いた喉を、水が心地よく潤しております。
小鳥の囀りが聞こえてまいります。そのうちの一匹が源一郎に背を向けて地面をついばんでおります。雀でございました。
暫くして源一郎と目が合うと、小鳥たちは一斉に飛び立っていきました。
やがて少し遠くで人の気配が二つございました。竹林に立ち入って何かをしているようでございました。
(タケノコ掘りか?)
源一郎は筍掘りの作業工程を存じません。時折老人らしき声がして、応じるように老婆の声も竹林に響いております。
三十分ほどの作業を終えると、老人たちの声は遠ざかっていきました。
夜には怪物が跋扈し、昼間は老人たちがうららかに生活している。その在り様に、えも言えぬ不安に包まれたのでございます。
(知らないのが幸せだってのはこのことか)
昼を過ぎれば大雨が降って参りました。恵みの雨でございました。源一郎は飲み終えた竹筒を外へ出し、枯れ葉で周辺を覆っております。
こうして伏せるといつものことなのでございますが、便は出なくなっております。心因性のものでもあるのでしょうが、体に食物を取り入れていないというのも理由としてはございました。




