源一郎・四月二四日
朝起きると、源一郎の枕元には和紙の紙片がございました。そこには日付日時と場所、またその際は徒手空拳でいることが明記されておりました。
紙片を財布の中に入れ、朝の柔軟をしております。
(さて)
照国に今日は一日出かけるよう申し伝えると、源一郎は人伝を頼りに和紙に記された場所を目指したのでございます。
昼過ぎには目的地である原っぱへと辿り着きました。
東京市のはずれにあるその周辺は開けており、民家の類はございません。山の中腹になっており、見下ろせば遠くに長閑な佇まいでいる田畑や民家が、反対側には鬱蒼と茂る竹林がございました。突き抜けるようでいる空は青々としており、心地よい風が源一郎の体を撫でていきました。
竹林に足を踏み入れると、柔らかい土の上に竹の枯れ葉が満ちております。靴で掘り返された土の香りが鼻腔に舞い込みました。風を強く受ける地形なのか、竹林の中だというのに枯れ葉が時折舞い踊っておりました。筍なのか、所々で足裏を刺激されております。昼日中でも完全には陽が届いておらず、風があるのに湿った気配に満ちています。
源一郎は可能な限り枯れ葉を集めて風呂敷で包むと、その場を後にしたのでございます。
東京市まで戻ってくると、源一郎は躊躇いながらも行く先を変えました。さほど重みのない膨れ上がった縮緬の風呂敷包みが重量を増したように感じられておりました。
やがて見慣れた景色へと戻って参りました。数日程しかいなかった長屋には、それでもどこか愛着のようなものが湧いていたらしく、望郷の念に似たものを覚えるような始末でございました。
長屋の一室の戸を叩きます。返事の後、ツルが顔を覗かせております。
「あっ、若せん――どうしたんですか急に!」
申して速やかに源一郎を長屋の中へと、半ば引きずり込むような形で引っ張ったのでございます。
「もうこの辺りに来てはいけませんよ。まだ可惜組の連中が若先生を探しているんですから」
以前渡した金がまだあるのでございましょう。ツルの風体に変わりはございませんでした。部屋の奥には子供が座っており、無垢な視線を源一郎へと寄こしているのでございます。
「ちゃんと食べていられてますか? 危ない目にはあっていませんか?」
やおら尋ねてくるツルの慈しむような声色に、源一郎は自らの身に起こったことの一切合切を洗いざらい吐き出してしまいたくなる衝動に駆られました。
「大丈夫です。大丈夫」
顔を背けながら申すので、ツルは怪しむようでありました。
「本当に? 本当に大丈夫なんですか?」
「安全な場所にいますよ。大丈夫です」
ツルは納得しないながらも引き下がり、源一郎の全身を上から下へと見やっておりました。
「そのお荷物はなんです?」
「ちょっと入用で」
源一郎は風呂敷を置いて、
「これを」
懐から財布を出し、百円札二枚を取り出してツルに握らせ風呂敷を取り、
「また落ち着いた頃に来ます」
言うなり長屋の外へと出て行ったのでございます。
(最低だ)
後ろめたさを金で解決したのでございます。
お金に貴賤などございません。それで自らの心が幾ばくかでも救われるのならそれで良いでしょうに。源一郎は自らの振る舞いを恥じておりました。
背中越しに聞こえてくるツルの声を無視して、源一郎は帰路についたのでございます。
陽も落ちて数時間する頃、源一郎は楕円に切った薄い大きめの布団に枯れ葉を縫い付けておりました。久々の針仕事にも関わらず、その手際は巧みでございました。傍らには竹筒が十本並んでおります。
(おそらくヤツも、同じことを考える)
ふとその指先が止まりました。
(いや本当にヤツは俺なのか?)
やはり源一郎と源三郎のかねてからの行動言動は、まるきり別人のようでございました。考えても仕方のないことばかりを考え続けるあたりも含め、源三郎とは異なっております。
あの日の帰り道の言葉を思い返しておりました。それが本当だとすると。
頭を振って忌々しい考えを振り払っておりました。
(馬鹿馬鹿しい、妄言だ)
そのような折、襖の奥から声が届きました。
「先生、夕飯でございやす」
襖を開けた照国が配膳しております。
「そこに置いておいてください」
「それとこちらが千円でございやす」
封筒に入れられた高級紙幣を確認し終えると、
「確かに頂戴しました」
源一郎は申して懐にしまっております。
源一郎の作業を見て、照国が疑問を呈しました。
「今度は一体なにをなさるおつもりで? 医療器具には見えやせんが」
「ん-。まぁちょっとしたかくれんぼですよ。数日したら、しばらく家を空けます。保存食を用意してもらえると助かります」
「へえ。ああ、可惜組の野郎どもから身をかわすためですかい? あっしらに任せてくださって構わないんですがね」
「組は関係ありませんよ。ちょっとした私用です」
「はあ」
少量の食事は、源一郎の注文でございました。
「戻ってきやすよね?」
「他に行くところもありませんからね」
「先生がいないと安心して鉄火場に足を突っ込めねえようになっちまいやした」
申して脇腹を叩いております。他にもこの二週間で源一郎が治療を施した傷跡がございます。すっかり治った様子でございました。傍目に異常などは見受けられません。
「あまり頼りにされても困ります。自分は得体のしれない異分子ですから」
すっかりこの環境に染められたのか、食べながら喋る姿は少々行儀が悪うございます。
「外国帰りでございやしょう?」
源一郎の箸が止まりました。
「お気付きかわかりやせんが、時折外国語でなにか言っておりやすよ」
「そうでしたか?」
再び箸が動き出します。源一郎に覚えはありませんが、ここのところの源一郎は、独り言を申す癖ができております。
「それにこの傷の手当て。日本じゃ考えられねえ。阿蘭陀辺りの医術じゃないですかい?」
「違いますが、外国帰りというのは確かですね」
「先生は日本に戻る前はどちらに?」
「中東です」
「チュウトウってのはどの辺で?」
「日本の西、欧州のやや南東ってところですかね」
あくまでも日本を中心としたメルカトル図法上での話でございます。
「ごちそうさまでした」
両手で手を合わせ、申しております。
「本当に哲のことはご存じないんで?」
「哲郎さんですよね? わかりません」
人間が嘘を吐くときには、独特の気配の揺らぎのようなものがございます。職業柄感覚的にそれを知っている照国は、源一郎の言葉に嘘がないであろうことを感じ取っておりました。
「どこに行っちゃったんですかね」
照国は黙して膳を片付けたのでございます。
「差し出口かもしれやせんが、先生は体格にしては食が細くていけねえと思いやす」
「あまり食べると後が困るんですよ」
よくわからないことを申す源一郎に背を向け、照国は膳を片手に立ち去りました。
『さて、続きをやるか』
針仕事は夜を徹して行われました。




