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無貌の神の転移奇譚  作者: 小峠 通
一章・転移とコピー

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哲郎・四月一八日

 哲郎は自らの運のなさを嘆いておりました。確かにこのところ不注意が多ございましたが、草薙親分自ら叱責(しっせき)されるとは思いもよらなかったのでございます。


 仰せつかったのが、本日未明の源一郎の尾行でありました。


(あの人なんでか二部屋離れたところでも人の気配を察知しやがるからな。慎重にいかねえと)


 この二週間でなんとなく源一郎の人となりを理解していた哲郎は、そんなことを考えながら足を止めております。


 裏路地を行く源一郎の背が、角に消えました。音を立てぬよう、そして空気も動かさぬよう近寄っております。


 やってみると、人の気配というものがなんとなくわかってまいりました。人の気配とは、云わば空気の流れや温度、靴や衣服の音、(およ)そ人が発するそのようなものを、気配というのだと理解してきておりました。


 角の先に気配はございません。角から顔を覗かせ視界で確認し、追尾しております。哲郎はそうやって源一郎の後をつけていったのでございます。


(いつもの道だ)


 いつも源一郎が死体を運ぶ道だと気付いておりました。次の角を曲がればビルでございます。


(兄貴が怪物に襲われたって話だが)


 そこへと夜な夜な源一郎が死体を運び込んでいたのでございます。薄ら寒い思いを禁じ得ませんでした。


(怪物が、本当にいるんじゃなかろうな)


 角から気配が消えました。哲郎は裏路地から出ていこうとして、その足を止めております。


(誰か来る?)


 哲郎は角に潜み、動きを止めました。足音の主はビルの前で立ち止まっております。


(バレたか? いやそんなわけねえ)


 暫くそのままでいると、今度はそれまでより大きな足音がして、ビルの中へ入っていったことがわかりました。

 その足音が完全に聞こえなくなるまで耳を澄ましておりました。


(上じゃない。地下の階段だ)


 哲郎が照国を発見した際の光景を思い出しておりました。


(……怪物か。本当にいるのか……?)


 身を屈めたまま足を忍ばせて哲郎も後を追いました。






 地下の十字路の角に身を潜めて、哲郎は待機しておりました。人物は二人いるようですが、声は源一郎一人のものに聞こえております。


(独り言で相談か? 先生が病院にかかったほうがいいんじゃねえのかな)


 気配が消えると、続いて哲郎も入室致しました。


(どこに行った?)


 さほど時を要さずに洞窟を見つけられました。不自然な位置に机があったためでございます。


(なんだ、ここは)


 何かの生物の体内のように広がる暗黒に、哲郎は怯んでおりました。


(クソが、こんなことで極道が張れるかよ!)


 (いさ)んで潜り込んだのでございます。




 懐中電灯を所持しておりますが、何分お役目は尾行でございます。ライターの灯りのみを頼りに未知の洞窟を侵害しておりました。

 幸いなこととしましては、人骨の類を石か岩の類と気にせずにおれたことでしょうか。


()っせえ)


 まるで何年も風呂に入っていない人間が発するかのような、鼻が曲がりそうな不潔な臭いに鼻を摘まんでいました。


(入り組んでるな。先生はどっちだ?)


 曲線を描く丸みに人の痕跡を見つけておりました。


(これ、目印だ)


 幼少の頃は緑の多い田舎に住んでいた哲郎でございます。その森遊びの折、このようなものはよく付けたのでございました。


(多分、こっちだ)


 幸か不幸かその推測は当たっており、源一郎たちの後を正しくつけていくのでございました。




 行く先に気配を感じ取り、哲郎はライターを消して分かれ道で身を伏せ、身動きせぬよう努めております。


(暗くて見えねえが、確かにいる)


 哲郎の感覚は暗闇によって鋭敏に磨かれておりました。


(今なら遠くで針を落とす音でも聞こえらあ)


 ややあってから『先生』の声が聞こえてきたのでございます。


『火炎瓶、当てろ!』


 遠くでする声に、哲郎には何を言っているのかわからずにおりました。何某(なにがし)かの言語であろう規則性があるようには聞こえましたが、それまででございました。

 やがて瓶のようなものが割れる音がし、向かって右奥からは赤い光が茫洋と差し、影の動きから火が発生したことが見てとれました。


(火炎瓶か? なんでこんな地下で)


 怪物という単語が脳裏を()ぎりました。


『落ち着け。一番でかい口に食わせるだけでいい』


 再びの異音でございます。哲郎は立ち上がり、角を覗き込みました。

 光源は大きくなり、身を乗り出すと人影が飛んできて、


「どけ! 邪魔だ!」


 巨体の人物に弾き飛ばされたのでございます。

 後を続いて一人の人物が背中を丸めて駆けていき、追従するように足元をなにがしかの生物が過ぎ去っていきました。


(なんだってんだ一体。動物? 動物が怪物の正体か。先生たちは仕留めそこなって逃げたのか)


 思って懐中電灯を照らし、見えなくなった後ろ姿を追いかけるのでございました。


(早い!)


 普段から運動不足の哲郎は、源一郎らの俊足についていくのは不可能でございます。

 息も絶え絶えに走っていくと、やがて前方から爆音が轟きました。肌と顎と目玉と鼓膜を破壊されかねないほどの衝撃を受け、哲郎は脳震盪を起こしておりました。


(は? え?)


 砂埃が目と口に入りました。なんとか態勢を持ち直し、酸素を欲しがる体に鞭打ち駆けております。


 やがて崩落した洞窟に行き当たり、哲郎の心は絶望に打ちひしがれるのでございました。


(嘘だ。え? は? そんなことってないだろ!)


 膝をつき、手先は外を目指すべく土くれを掘ろうと動きましたが、心がついて来ませんでした。

 やがて掘ることを諦め、他の道を探すべく立ち上がりかけたその時、背後から何者かが近寄ってくる物音がいたします。


(誰だ?)


 音のするほうへ懐中電灯の明かりを向けました。

 人間の足音でもない音を立てるそれは、人間を思わせる風体でいて、決して人間であろうはずがない肌の質感と骨格形状をしておりました。


「エサ、エサ!」


 言って怪物は哲郎の左腕へと噛みついたのでございます。拍子に懐中電灯の明かりが消えました。


「痛え、やめろ!」


 殴って振り払うと、哲郎は両手でドスを構えます。懐中電灯はどこかへと転がっていきました。呼気は興奮に荒れておりました。


「ぶっ殺すぞ!」


「エサ、チガウ、エサ、チガウ」


 言い残し、怪物は暗闇のさらに奥へと姿を消していきました。


「……あいつが、兄貴を?」


 ライターを灯して左腕を確認すると歯型があり、少し肉を嚙み切られておりました。流れ落ちる血をどうすることもできず、哲郎は途方に暮れるのでございました。

 洞窟内は整備されたものではなく、懐中電灯は探しても見つかりませんでした。






 何度目の分かれ道か、もはや判然と致しません。ただこの洞窟を彷徨い草臥れ果てた体は、水分を求めておりました。


(クッソ、水なんてあるわけねえ)


 何かが駆けていく影と音に怯えるのも、もう回数を数えてはいられませんでした。


 鋭敏となった感覚が、ここにきて哲郎の心を追い詰めております。

 怪物が跋扈(ばっこ)する出口の見えない暗いほら穴の中に一人取り残された人間の心境とはどのようなものでございましょう。


(死ぬのか、ここで)


 出口は一向に見つかりません。


 つい一時間ほどまでには、兄貴分である照国と捨吉らと談笑しておりました。あまりにも遠く感じられる日常に、気が遠のく思いでございました。


 とうとう笑い声をあげる始末でございます。


「ありえねえ……ありえねえよ」


 どこをどう歩いたのかもわからぬまま、童謡を歌いながら彷徨い歩いておりました。






 何故自分がこのような目にあわなければならないのか。何故こんなにも自分は不運なのか。嘆きばかりが哲郎の心を支配しておりました。


「俺が何を~したっていうのか~」


 最早正気ではございません。


 薄明りの中洞窟をただひたすらに、歌いながら歩き回る。矮小な人間の精神の、なんと脆弱なることか。




 どれほどの距離を歩き続けたのかさえ判然としなくなった頃、哲郎の鼻腔は何かが焼けた臭いを捉えておりました。

 ライターの頼りない光が縁取(ふちど)ったのは、屈みこんだ人型の背中でございました。一心に何かを()んでおります。

 人外だろうことは理解しておりました。それでも心折れた哲郎は無気力に語り掛けるのでございます。


「……なんだ? 何を食ってる?」


 頭髪を振り乱して振り返った怪物の顔は緑色の液体に染め上げられており、むき出しの歯は犬のようでいで、丸い瞳が光っておりました。背後には蹄状の足が横たわっており、穴が開いたように焼け焦げてボロボロになった肉塊(にくかい)がございました。


「ニク、ニク、エサ、エサ」


 肉塊に気をとられ、怪物に首元を噛みつかれた哲郎は、生命の危機に体を脅かされていながらも、心は安堵に包まれておりました。


(ああ、漸く終わる)


 明滅を繰り返す視界の中で、哲郎は故郷の星々の光を思い出しておりました。


(こんな世界はおかしい、俺は誰だ、お前は誰だ。宇宙は空にあるんだ、こんな地底にじゃない)


 痛みすらもが他人ごとのように感じられるほど、哲郎の精神は千々(ちぢ)に乱れておりました。


 しかしそれも数瞬のことで、哲郎の意識は首を支える中心部が折れる音に断ち切られたのでございます。


 あまりにもつまらない、下らない最期でありました。

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