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無貌の神の転移奇譚  作者: 小峠 通
一章・転移とコピー

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源三郎・四月四日

 源三郎は邸宅の倉庫から鉄ヤスリを見つけ出し、マスクを装着して離れの部屋で一心に削っておりました。生じた粉を酒瓶に詰め、ラベルを張って蓋をします。その作業を陽が上るまで繰り返しておりました。


 日が昇って庭先から家人の起きた気配がすると、降り立ち一人を呼び止め、


「もっと大きな鉄ヤスリはないですか?」


 と尋ねております。


 程なくして大きなヤスリを手に持った女中が戻ってくると、ある変容した物質をとにかく大量に集めてほしいと請いました。


 伝えて作業に戻ったのでございます。




 屋敷の門を背に中庭に立ち、源一郎はどう言ったものかと悩んでおります。記憶の中の少女は、止めろと言われれば言われるほどに反発するきらいがございました。直截(ちょくせつ)的にもう廃ビルに行くなと言って、素直に従う映像が浮かばないのでございます。


 これといった良策が浮かばぬうちに、少女と青年の姿を見止めました。


「おはようございます」


「おはよう。二度と例のビルには行かないように」


 馬鹿正直でございます。


「まさか、行ったんですか?」


 縁は源三郎に詰めよっております。


「おはようございます。どうしたんですか? 朝から穏やかじゃないですね」


 源三郎は銀之助の挨拶に応じながら、


「この男が心配するだろう。親父さんにも迷惑をかけただろう。探検家気取りでうろついて良い場所じゃない。それに廃墟はいつ崩れるかしれない、危ない。不法侵入は良くない、犯罪だ。お嬢のやることじゃない」


 捲し立てる源三郎の言に、縁は怒りか恥か、面相を紅葉させております。


「絶対に行くな。近づくのも避けろ。わかったな?」


「どうして貴方にそんなことを言われなくっちゃならないんです?」


「別に聞かなくても良い。ただ死ねるだけだ」


 言うだけ申しまして、源三郎は作業に戻るべく離れの門戸に体を潜らせておりました。


 縁と銀之助は、その背中を片や腹立たし気に、片や置いてけぼりに見送ったのでございます。






 作業に飽きた源三郎は、図書室におりました。手に取っているのは先日の本でございます。


 眺めている項目は食屍鬼――グールでございます。


 例の意思の疎通が図れた怪物はこっちだろうと見当をつけ、再び読み込んでおります。ですが以前目を通した際に得たこと以上の情報は得られませんでした。


 この本は、決して空想的な生物図鑑ではないという可能性が看過できない程度に源三郎の心中へと沸き起こっておりました。

 であるならば、解せないのはティンダロスの猟犬でございます。実在するのならば、源三郎らをいつ何時襲ってきてもおかしくありません。


 至る所に存在する鋭角を多少気にしながら、源三郎は他の本に手を伸ばしておりました。






 夕暮れ時、源三郎は銀之助に呼び出され、邸宅の敷地の隅にある小さな格技場へと連れてこられておりました。


 銀之助は黒帯の柔道着でおり、源三郎は武道着の上に袴を履いた装いでございます。手足のサイズが合わないのか、源三郎の武道着は少々寸足らずでございました。


「袴がないと落ち着かないんだ」


「やはり武道の経験者でしたか。袴といえば、古武術か剣道、撃剣ですか?」


「色々だよ」


 足場や服の具合を確かめるよう軽く跳ねております。


「嬉しいです。ここを作ってもらったはいいものの、一人では稽古になりませんでしたから」


「俺もありがたい。毎日動かないと体が鈍ってしまう。

 しかし、金之助に銀之助と、ちょっと紛らわしいな」


「人の名前を紛らわしいとは、結構な仰りようですね」


 気分を害したふうでもなく、銀之助は続けます。


「名前が似ているということを切っ掛けに、先生に目をかけていただいたのです」


「ふぅん」


 源三郎は申して近寄り鼻を鳴らしました。


「煙草は吸ってないようだな」


「言わないでくださいよ、吸いたくなります」


「えらい」


 感心面でございました。


 互いに一礼をして、歩み寄ります。


「どうぞ」


 申して源三郎は銀之助の襟首を掴みました。


「では失礼して」


 紫電一閃、銀之助は鋭い身のこなしで源三郎を背負い投げにし、今までの鬱憤を晴らさんがばかりに思い切り地面に叩きつけました。


 源三郎は何事もなかったかのように立ち上がり、再び襟首を掴みます。


 今度は大外刈りでございます。その巨躯には見合わぬ速度の踏み込みでもって源三郎の背を地面に叩きつけました。


 源三郎は立ち上がり、またもや襟首を掴んでおります。


 繰り返すうち、息が上がってきたのは銀之助でございました。


 久方ぶりの日本の道場での稽古に、源三郎は少々呆けておりました。稽古だというのに、抵抗することを忘れておりました。


 源三郎の体は、銀之助にとりましては一転して巨大な岩石のように重く、また時には軟体の(タコ)のように感じられました。崩すこともできなければ、捌くこともできず。緊張と緩和の応用でございます。

 年季も経験も段違いに異なります。道場通いの、ましてや学生に相手が務まるものではございませんでした。端的に申し上げて大人げなくあります。


 銀之助が気を緩めた一瞬に、源三郎は力を抜いて、次いで加えて銀之助の体を横転させたのでございます。


「今のは、なんですか?」


 呼吸が乱れておりました。源三郎は、敵に回るかもしれない人物を相手に手の内を晒すこともないと考えつつも、武道家としての習性も抑えきれずにおりました。


「ある武道の基本なんだが」


 体の反射の話でございました。自らが手前に引けば相手は身を引き、そこに合わせて力を加えるのだと申しました。


「なるほど」


「柔道にも十分応用が利く。取り入れてみると良い。もっと強くなれる」


「こうですか?」


「仕掛け方が違う、こうだ」


 手の側面で銀之助の肩を押し、直後に襟首を手前に引っ張っております。


「おお、崩れますね」


「こういうこともできる」


 銀之助の手を外に払い、重心の足に体重がかかる前に崩れた銀之助の小外(こそと)を刈りとりました


 神棚だけが、二人を見守っておりました。


 格闘馬鹿たちの夕暮れは、陽が沈んでからも続きました。






 二人で格技場を出ると、外は闇に包まれておりました。

 郵便受けを漁っていた銀之助が戻ってまいります。


「これ、源次郎さん充てですか?」


 見れば封筒でもない、飾り気のない和紙でございました。「源一郎は草薙組の中にいる」とだけ書かれておりました。


「草薙組って知ってるか?」


「この近辺を縄張りにしている極道ですよ」


「案内してもらえるか?」


「近いですし、構いませんよ。呼び出されるようなことでも?」


「因縁はない」


 武道を通じて仲の深まった二人でございました。






 草薙邸から帰ってくると、


「おかえりなさいませ」


 出ていく様子が見えたのでしょう。女中が申して礼をしておりました。


「ただいま戻りました。夜分にすみません」


「お疲れ様です」


 申して二人は別れていきました。




 源三郎の離れの外には、頼んでおいた大量の物質が所狭しと乱雑に置かれておりました。近辺の家からも集めたのでございましょう。そこには木の棒なども混ざっており、尋常ではない量でございました。

 これも削らなければならないのか、といくらか肩を落とした様子で部屋に戻ったのでございます。

※源三郎が何をしているのかわかっても、絶対に真似しないようお願い申し上げます。何が起きても当方では責任を負いかねます。

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