業火の記憶
豪奢で広々とした廊下を一人の幼い少年が走る。手に持つ物を落とさないように気をつけながらも、その時が来るのを待ちきれないとばかりに走っている。パタパタ、パタパタと走って漸く目的地に辿り着いた。とある部屋の扉を勢いよく開ける。
「兄様!」
突然の来訪者に部屋の中にいた同い年の兄は顔を顰めた。
「テメェ……ノックくらいしろ」
「だってこれ早く食べてほしくて! ほらっ!」
少年は持ってきていたバスケットを兄に見えるように突き出す。それを見た兄は大きく溜め息をついた。
「また作ったのか……」
「うん! 教えてもらいながら作ったし、美味しくできてる! はず!」
「そこは断言しろよ……」
少年が持ってきたバスケットには出来立ての料理が入っていた。今日はキッシュだ。少年はにこにこしながら部屋に設置されたテーブルにバスケットを置く。座っていた兄はテーブルに置かれた目の前のバスケットを見てまた溜め息をついた。
「ラインハルト様」
横から声を掛けられる。少年――ラインハルトはギギギと壊れたロボットのようにぎこちなく声の方向を向く。そこに立っていたのはかっちりした黒服を着た一人の従者。
「……あー、えっと……アルマ、これは……その……」
従者――アルマは深く溜め息をつく。
「ラインハルト様、いつも申し上げておりますが御自身の御立場を自覚なさって下さい」
「で、でも料理って楽しくて……」
「楽しかろうと貴方様のするべきことではありません。加えて先程の入室。もう七歳なのです。普段より王族としての作法でお過ごし下さい」
「……はい」
ラインハルトはわかりやすく落ち込む。折角作ってきたというのにこれでは食べることも許されなさそうだ。料理は没収されてその後どういう扱いをされることやら。せめて捨てられなければいい。
そんなことを考えていると、不意に兄がバスケットに手を伸ばした。行儀悪くも素手でキッシュを取り出して一口食べる。もしゃもしゃと食べてから一言。
「まぁ、不味くはねぇな」
その感想にラインハルトはぱぁっと花が咲いたように笑う。
「やった!」
「不味くはねぇだけだからな」
口と態度は悪くとも、さりげない兄の優しさがラインハルトは大好きだった。
再び横から溜め息。
「ジークハルト様……」
「はいはいわかってんよ。でも冷めて台無しにするほうが良くねぇだろ?」
「……まぁ……そうですが……」
「だろ」
「ありがとう兄様!」
「……おい」
「え?」
喜んだのも束の間、兄――ジークハルトが大層顔を顰めてこちらを見てきた。
「テメェ……『ありがとう』じゃねぇんだよ。料理するくれぇなら平民にでもなっちまえ」
「っ……」
〝平民にでもなっちまえ〟。その言葉を聞く度にラインハルトは突き放されたように感じていた。いつからだろうか。それを頻繁に言われるようになったのは。兄は自分のことを嫌いになったのだろうか。どうかそうでなければいい。
空になったバスケット。それに手を伸ばす。
「それじゃあ、オレ行くね。お邪魔しました」
「とっとと帰れ」
「……うん」
ラインハルトは部屋を出る。訪れる前はあんなにも楽しい気分だったのに、今はもうその気持ちは全くない。ないどころか気分はどん底だ。ラインハルトは深く息を吐く。
「兄様、オレのこと嫌いになっちゃったのかなぁ。それに料理もしちゃいけないなんて……やだな……」
ラインハルトは料理をはじめ、所謂平民がするようなことを好んだ。しかしそれをする度に怒られる。まぁ言葉遣いに関しては双子揃って直さないのでもう言われなくなったが。だがそれでもとても窮屈に感じていた。けれど、いざ平民になってしまえなどと最愛の兄に言われてしまうととても傷つく。
「……はぁ」
わからなくなった兄の真意。好きなことを制限される不自由。
ラインハルトは重い足取りで自室へと戻っていった。
◇◇◇
とある日。ラインハルトは勉学に励んでいた。厳しい指導はいつものこと。ただいつもと違うのは普段教鞭を執っている者が不在ということだ。では今日は休みかな、と期待したもののもちろんそんなことはない。代わりの者としてアルマがラインハルトの指導……ならぬ監視についている。本来であればジークハルトに仕えている従者がつくなどありえないが、今日はあらゆる小事が重なり異例の処置となった。いつも怒られているのでラインハルトにしてみれば大変やりにくい。
できるだけアルマを意識から外して励んでいると、やっと終わりの時間がやってきた。いつも以上に神経を使っていたのでかなり疲れた。ラインハルトはぐでっとだらしない体勢になる。
「疲れたぁ」
「お疲れ様でした。しかしそのようなお姿をされるのはいただけません」
「はぁい」
「返事はきっちりなさって下さい」
「……はい」
アルマはうるさい。兄はよくこの従者と上手くやっていけているものだ。まぁ兄の性格であれば自分と違って己を曲げることがないので問題ないのだろう。反対にアルマが疲れていそうだ。などと考えていると、やはり兄のことが気になってしまって仕方ない。兄の態度の真意が。
「ねぇ、アルマ」
「はい」
「兄様はどうしてオレへの態度が変わったのかな……。前はもっと優しかったのに……」
ジークハルトはいつからかラインハルトへ峻厳な態度を取るようになった。言葉遣いは変わっていないが、不器用な優しさのある兄だったのに。前は渋々とはいえ遊んでくれていたのにそれもしてくれなくなり、心做しか避けられているような気さえしている。ラインハルトから近づけば突き放すようなことを言われてしまう。
一体何が原因でそうなってしまったのか。自分の何が二人の関係を変えてしまったのだろうか。きっと原因があるとしたらバカな自分のせい。ラインハルトはそう思っている。けれどはっきりとした理由がわからない。しかしずっと兄と共にいるアルマならば何か知っているかもしれない。理由がわかれば関係を元に戻すことができるかもしれない。アルマならば手を貸してくれるかもしれない。その希望に縋ってアルマに問い掛けた。そして、その答えは抑揚のないいつもの口調で。
「ジークハルト様にも思うところがあるのでしょう」
「思うところ?」
「えぇ。何しろ、次の王位を継承するのは貴方様なのですから」
「……え?」
ラインハルトは言葉の意味を理解するのに時間がかかった。王位を継承する? 自分が? 兄がいるのに? 自分より優秀な兄がいるのに? 最愛の兄がいるのに? どうして? なんで?
頭が混乱に陥る。
「おや、聞かされておりませんでしたか」
「……」
自分は知らない。何も聞いていない。嫌だ。そんなの嫌だ。兄の上に立つなんて絶対に嫌だ。自分は兄の役に立ちたいのに。
ラインハルトは立ち上がり急いで部屋を出た。行き先は国王――父の元。
息を切らしながら走って、父の姿を見つけた。
「父様!」
振り返った父。その父に縋り付いた。ラインハルトはアルマの勘違いを願って父に問う。後継者は誰なのかと。その問いに父はいつもの笑みを作って言った。お前だと。
ラインハルトはその場に頽れそうなほどのショックを受けた。力のない声でなんとか理由を問えば、その返事は残酷なもの。
――ジークハルトは相応しくない。
素行が悪いから。だから王には相応しくない。そう言った。
素行が悪いから? ……違う。本当はとても努力しているのだ。生まれながらの才能を無駄にしないように誰よりも努力しているのだ。なのに何故? 父であるのに一体何を見ている?
王として人々を導く父をラインハルトは尊敬している。しかし今回ばかりは納得できなかった。ラインハルトは必死に訴えた。自分よりも兄の方が余程相応しいと。けれど父がそれを聞いてくれることはなかった。軽くあしらわれて会話を終えられてしまった。遠ざかっていく父を呆然と見送る。そして気づいてしまった。
もしも兄がこのことを知っていたら? 何を思う? ……いや、まさかそんなわけ……。
ラインハルトは走り出す。兄の部屋に向かって。必死に広い廊下を駆ける。長い時間にも感じながら走り続けて漸く辿り着いた。
扉をノックしようとして、躊躇う。いつもは遠慮せずに開け放つのに、今はとても怖くてなかなか手が動かない。けれど開けなければ。ラインハルトは勇気を出してノックし、ゆっくりと扉を開ける。
部屋にいた兄は壁に寄りかかって窓の外を眺めていた。兄はよく外を眺めている。以前、何を眺めているのかと問い掛けてみたことがある。その時は、別に、と答えられて教えてもらえなかったことを不意に思い出した。
「珍しいじゃねぇの。ノックするなんてよ」
「……うん」
窓からこちらへ視線を移した兄。いつもなら厳しい目付きであってもこちらを見てくれることを嬉しく思うのに、今は怖くて仕方ない。思わず俯いてしまう。
「どうした?」
ラインハルトは顔を上げる。もしや兄は今自分の様子を心配してくれたのだろうか。嬉しい。もうこのまま何も言わずに去ってしまってもいいのではないか。そうすれば嬉しい気持ちのままこの部屋から出られる。しかしそうもいかなかった。扉がノックされる。兄が反応して入室を促したため、アルマが部屋に入ってきた。
「おや、ラインハルト様も御出ででしたか」
「アルマ……」
王位のことをアルマから聞いたこともあり、正直今は会いたくなかった。そんなことを思ってしまったのがいけなかったらしい。
「その御様子……。もしや御自身で確認なされたのですか?」
「そ、それは……」
「あん? 何の確認だよ?」
「後継者の件で御座います。ラインハルト様は御存知なかったようでしたので」
「アルマ!」
どうして言ってしまうのか。怖くとも自分の言葉で思いを聞きたかったのに。ラインハルトは焦燥感に駆られてアルマを睨めつけた。
「あぁ、そのことか」
兄の冷淡な声が聞こえ、おずおずとそちらへ顔を向ける。目に写った兄に表情はなかった。ラインハルトはひゅっと息を呑む。一体これから何を言われるのか。怖い。
兄は鼻で笑った。
「んなのとっくに知ってたっての」
「え……」
「知らなかったのはテメェだけだ。嬉しいか? 王位を継げて」
「そんなことない!」
ラインハルトは叫ぶ。しっかりと自分の思いを伝えたい。だから必死に言葉にした。
「王位なんていらない! オレは兄様の力になりたいのに!」
一瞬目を見張った兄。しかしそれはすぐに冷たい表情へと変わった。ラインハルトは困惑する。自分は何か言ってはいけないことを言ってしまったのだろうか。不安に耐えるために胸元の服をぎゅっと握る。
「あ、の……兄様……」
「オレの力になりたい? オレにテメェが必要だと思ってんのか?」
「それ、は……」
「弱っちぃテメェに一体何ができんだよ。王位を継がないってんならテメェなんか――」
やめて。その先は言わないで。しかしその願いは届かない。最愛の兄は無慈悲に放った。
「〝平民にでもなっちまえ〟」
胸に穴が空いた。体から力が抜けていく。全身の感覚が希薄になり意識がぼやけていく。ただなんとか力を振り絞って部屋を出た。自身がその部屋にいた事実を消すように、とてもゆっくり、静かに扉を閉める。それからよたよたと自室に向かって歩く。穴が空いた胸が寒い。その寒さを自覚してしまえば、自室に辿り着く前に限界がきた。
「っ……ふ……ぅ……」
ラインハルトは泣く。ぽろぽろと流れる涙を止められない。悲しくて、寂しくて、ひどく苦しい。苦しすぎて声を上げて泣くこともできなかった。廊下を歩く間も、部屋に辿り着いてからも変わらない。ただ静かに、たった独りで、ラインハルトは苦しみ続けた。嘆き悲しみながらもただ一つ、兄弟という絆だけは切れないのだという小さな希望に縋りつく。そうすることでしか心を保つことができなかった。
◇◇◇
日を追って兄とは距離が離れていく。けれどラインハルトはその距離をどうしてもなくしたかった。何を言われようともどうしても兄を嫌いになれない。どうしても元の関係を望んでしまう。だって、大好きだから。兄が本当は優しいことを知っているから。……でも、自分に何ができる? 兄と違って平凡な自分に。平凡な自分では何を考えようともわからなかった。
ただ、ラインハルトは意地でも自分から離れようとはしなかった。前よりも大きくなった不安を抱えながらも兄の部屋に行く。何も用がなくても遊びに……否、兄の様子を眺めにいった。兄は悪態をつきながらもラインハルトを力尽くで部屋から追い出すことはしなかった。それも兄の優しさなのだとラインハルトは信じた。
今も兄の部屋にいる。部屋の隅に置かれた椅子に座って大人しく兄を眺めているところだ。視線の先にいる兄はまた窓の外を見ている。一体何を見ているのだろう。日々積み重なる好奇心が溢れるようについ口から漏れてしまった。
「兄様は何を見てるの?」
「……」
兄から返事はない。こちらを見てくれることもない。今日も教えてもらえないのか。そう思った時、予想外にも兄が口を開いた。
「……最後だから、教えてやるよ」
「え?」
最後とはどういうことなのだろう。兄の言葉の意味がわからない。けれどそれを考える前に兄の言葉が続いた。
「野望だよ」
「野望……?」
また、わからない。けれど今は兄の言葉を聞くことしかできなかった。
窓の外を眺める兄の口元が弧を描いた。
「そ。野望。ずっと抱いてたそれが、実現させる方法がわからなかったそれが、やっと叶うかもしれない」
「そう……なの……?」
「あぁ。気持ちが高ぶって仕方ねぇよ」
兄の声音は言葉通り嬉しそうだった。けれど野望というものが何なのかわからないラインハルトにはそれが本当に嬉しいことなのかがわからない。兄の本心はわからないが、空を見上げることで思いを馳せているということでいいのだろうか。では、兄が何度も思いを馳せるほどの野望とはなんだろうか。
「野望ってなに?」
問い掛ければやっと兄はこちらを向いてくれる。そこにはちゃんと表情があった。優しい顔。そのはずなのに、逆光で暗くなったその顔は少し怖く感じた。動揺したラインハルトに構わず、兄はその表情のまま続けた。
「テメェにだけは教えてやらねぇよ」
そう言った兄はすぐに表情を変えた。いつもの厳しい顔になる。
「もう今日は帰れ」
「え?」
「いいから、早く帰れ」
「……うん」
こう言われてしまえば部屋を出るしかない。もっともっと聞きたいことはあるが、今日はそれができないらしい。ならば明日また教えてもらおう。
……そう……思っていたのに……。
なんで……? なんでこんなことになったの……? なんで……全てが燃えているの……?
突然だった。また明日兄の部屋に行こう。昨日そう思った通りに今日も部屋に向かうはずだったのに。
燃えている。どこもかしこも燃えている。地には赤い水が広がっている。点々と人だったものが転がっている。
何も状況がわからない。呼吸が苦しい。それは煙のせいか。いや、それだけじゃない。強すぎる恐怖が自身を襲っている。けれどそれでも兄を思う自分がいた。
「兄様!」
兄の部屋に向かって走る。走り慣れた廊下を走破して部屋へ。扉を開け放ったその先に兄の姿はなかった。ラインハルトはすぐに再び走り出す。炎を避けて、煙を避けて。通れる道を正しく判断して走る。すると自然に辿り着いたのは謁見の間だった。ここなら兄だけでなく父や母もいるかもしれない。そう思って扉を開けた。中に入って目に写ったのは。
――倒れた父母を見下ろしている兄の姿だった。
状況が理解できずに呆然とする。けれど体は動いてゆっくりとその光景に近づいていった。随分近づいてから漸く足は止まる。倒れている父母は血を流し、虚ろな瞳をしていた。
「よぉ、ラインハルト」
「にい……さま……」
兄からの呼び掛け。それはこの光景の前にはそぐわない、いつもの声音だった。全く状況を理解できずにただただ兄と父母に視線を彷徨わせる。定まらない視線は兄とは違う声で止められた。その時に初めて他の人間がいることに気づく。
「御二人は死んでおりますよ」
「しん……でる……?」
「えぇ、ジークハルト様と私で殺しましたので」
「……え……?」
アルマから告げられた言葉が理解できない。殺した? 誰が?
「おいおい、ほんと頭わりぃなテメェは」
呆れたように言った兄。いつもと変わらない口調。これは、夢?
「この二人も、城にいる連中も、オレとアルマで殺したっつってんだよ」
はっきりと突き付けられる。現実を。ラインハルトは緩く首を横に振った。
「なんで……? どうして……?」
力ない声で問えば、兄は表情を変えた。初めて見る残忍な笑みへと。同じ年とは思えない笑みへと。ラインハルトは咄嗟に後ずさった。
「怯えてんの? ほんと弱ぇなテメェは」
「ぇ……ぁ……」
兄はラインハルトへと歩み寄ってくる。見たことのない表情にラインハルトは動揺して一歩一歩後ずさった。目の前の人物は本当に兄だろうか。兄の皮を被った何かではないのか。これは、誰だ。
混乱の中、背後で誰かがこの場に入ってきたのがわかった。反射で振り返る。そこにいたのは衛兵だった。助けを求めようと口を開きかけた時、自身の横を炎が通る。水平に放射された炎は容赦なく衛兵を焼き殺した。
恐る恐る炎が放たれた方向を見ると手を突き出した兄がいた。その手には炎が纏われている。誰が魔法を放ったのかは明白だった。
「ほら、これでわかったろ」
「ぁ……ぅ……」
呆然としながら勝手に涙が溢れ出す。人を殺した兄は残酷に歪んだ笑みを消さない。そして堪えきれないというように吹き出す。
「くっ、ははっ! テメェ言葉すら話せなくなったのかよ!」
「……ぁ……」
「ほんっと弱ぇの! こんなんでよくオレの力になりたいなんて言えたな! こんなにも情けねぇくせに!」
ラインハルトの内で何かが切れかける。それを必死に守ろうと思っても何もできない。
目の前で兄が笑い続けている。とても愉快だというように。
「ほらっ! 死にたくないなら逃げてみろよ! どうせテメェなんざ力もない、ただ這いつくばって逃げることしかできない無能なんだからよぉ!」
兄が今度は自分に手を向けてくる。その手で炎が激しく燃え盛った。殺される。嫌だ。死にたくない。ラインハルトの体はその意思に応えた。兄に背を向けて走り出す。転びかけても必死に、それこそ情けなくも這いつくばりそうになりながら。
もう少しで謁見の間を出る。すると後ろから兄の笑い声が聞こえてきた。ラインハルトを嘲るもの。惨めにもその声に背中を押されて走る。謁見の間を出て廊下を走り続けた。炎、血、死体、全てに背中を押されて走り続ける。自分は何もすることができない。これらに背中を押されなければ走ることすらできない。無力。無能。どこまでも情けない自分。惨めで弱い自分。とてもつらくて苦しくて。
けれど何よりもつらいのはそれじゃない。それは、兄が、最愛の兄が、変わってしまったこと。いや、本当に変わってしまったのか? ずっとこんなことをしたかったのか? わからない。わからない。わからない。でも確かに兄は自分を攻撃しようとした。それは疑いようもない、完全な拒絶。
「ぁ……あぁ……」
今までの楽しかった二人の日々が色褪せて、砕けていく。もう、耐えきれない。
「ぁ……あぁ……あ、あぁぁぁぁぁあああ!!」
ラインハルトの心で、細い糸のように僅かに繋がっていた兄との絆は完全に断ち切られた。
こうしてラインハルト――ライトは、兄――ジークハルトと決別することになったのだった。
◇◇◇
通り過ぎていった柔らかな風が二人の髪を揺らした。風と同様、柔らかな日の光が向かい合う二人をあたたかに包み込んでいる。
この平和な空間で残酷な過去を語ったライトの表情は柔和で翳りがない。ユリクスもまた、ライトの話を聞いて同情することはない。今のライトには必要ないはずだから。何しろ、ライトはもう過去を拒絶していない。ジークハルトと対面したことで抉られたであろう心は塞がっている。そうでなければこんなにも穏やかな表情はしないだろうから。とはいえ、何がライトをそうさせたのかをユリクスはよくわかっていないが。
目の前のライトがくすりと笑った。
「ありがとう。聞いてくれて」
「……礼を言われるようなことじゃない」
「それでも、ありがとう」
「……あぁ」
ライトは視線を少し下げた。懐かしむような表情だ。
「今でも、どうしてジークハルトがあんなことをしたのかわからない。どうしてオレとの関係が変わったのかもわからない。それから、あの日のことはもちろん許せない。……でも、どうしてあんなことをしたのか、その理由を聞いてみたいとも思うんだ」
「……聞くといい。また会うんだろう?」
「うん。今度は必ずちゃんと向かい合うよ。それで、ジークハルトのことを知りたいんだ。わかりたいんだ。だって、双子の兄弟だから」
「……そうか」
ジークハルトと戦わなくてはならない。しかしそれ以上に兄のことを理解したい。それがライトの成し遂げたいことなのだろう。復讐することではなく、再び歩み寄ることが。
ライトが眉を下げてユリクスを見上げる。
「身分のこと、顔に出るくらい驚いてたのに隠してたことを責めないんだね」
「……前に言っただろう。お前が何を隠していようが俺は責めるつもりはないと」
「そうだったね」
不意にライトが緩めていた表情を引き締めた。
「やっと会えたのに、何もできなかった。それどころか対等に向かい合うこともできなかった。だから――」
ライトは強く拳を握る。ユリクスを決然と見据えた。
「強くなる。もっと。絶対に」
真っ直ぐな瞳をユリクスは受け止める。正直、ライトがジークハルトに負けるとは思っていない。ライトは強い。けれど、それを言ってもきっと本人は納得しない。ならばユリクスに言えることは一つだ。
「……諦めるなよ」
これが、ユリクスからライトへのエール。諦めない限り、きっとライトならばやり遂げる。そうユリクスは信じている。その信頼をライトが受け取ったのかはわからない。けれどそれは大して重要ではない。ただこの言葉がライトの糧になってくれることを願うのみだ。
強く頷いたライト。それから表情を緩めた。
「ジークハルトと一緒に過ごしていたのはオレだ。でも過去に縋り付くべきじゃない。今アイツと向き合うべきは今を生きるボクだ。あの日をきっかけに自分を変えちゃったボクは弱いと思う。それでも、今生きてるのはボクだから。だから、ボクは今の自分を曲げない。自分らしくアイツと向き合うっス!」
いつもの快活な笑み。その笑みを見て、ユリクスは心底〝嬉しく〟なった。ライトの頭を撫でる。
「兄貴、笑ってる」
「……そうかもな」
「……へへっ」
無邪気に笑うライトを見れば口元くらい緩んでしまっても仕方ない。ユリクスは自身の状況を受け入れた。撫で続けていると、急にライトが、はっ! と大げさに何かに気づいたような表情になる。ユリクスは首を傾げた。ライトがあわわわと慌て始める。
「夜になったら大変なことになるじゃないっスか!」
「……そうだな」
「『そうだな』じゃないっスよ! 早くなんとかしないと!」
「……まぁ、なんとかなるだろ」
「気楽! あまりにも気楽!!」
ユリクスは顎に手を当てる。そして顔を顰めた。今度はライトが首を傾げる。
「どうしたんスか?」
「……ティアたちに誰かが接触している」
「え?」
二人揃って怪訝な顔を向き合わせた。
お読みいただきありがとうございます。
第一章から登場している人物の秘密が明らかになるの遅すぎでは? と思いつつようやく公開できて嬉しいです。




