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レージェの過去、そして未来へ

性的暴行を仄めかす描写があります。ご注意ください。

 レージェは一人ぽつんと樹林の中で立っていた。


 銀世界は実に美しい。しかし、雪に包まれたこの場所はとても静かで、まるで世界から切り離された空間に独り取り残されたようだとレージェは思った。一度そう思ってしまえば自然と体が震え始める。


 レージェはいつも怖かった。何がというわけじゃない。ただただいつも怯えていた。


 けれど最近では賑やかな仲間たちのおかげで、その恐怖を忘れる時間があった。だがその仲間たちは今側にいない。気を紛らわせてくれるものはない。


(どうして、私はこんなにも臆病になってしまったのでしょうか……)


 本当はその答えをわかっている。それは自分の弱さを知っているから。弱い故に、何もできないから。大切なものを守ろうと戦うことすらできなかった過去があるから。


 仲間たちに相応しい人間になろうと決心して、旅についてきた。けれど己の本質はどうしたって変わらないのではないか。どこかで未だそう思っている自分がいる。


 己の本質。大切な人を、母を目の前で失うとわかっていて動けなかった弱い自分。


 レージェは強く根付いて消えない後悔が生まれたあの日を思い出し、涙を拭った――。




 ◇◇◇




 十年前――。




 十二歳のレージェにはとても美しい母親がいた。水のように清らかに流れる淡青色の長髪。髪と同色の、穢れのない透き通った瞳。清楚で整った顔立ち。品のある所作。


 その容姿で道行く人々は振り返り、声を掛けられることもしばしば。それを相手を傷つけることなく巧みに躱す母の振舞いも子どもながらに憧れた。


 通りすがりの人々は知らないが、レージェは母の美しさが容姿だけでないことを知っていた。


 母はとにかく優しく、強い人だった。全ての人を思いやる心を持ち、襲い来る魔獣にも怯まない心を持っていた。


 全てを包み込むような優しさ。人の傷を癒すようなあたたかさ。大切なものを守るために脅威に立ち向かう強さ。


 レージェは母のその心こそ美しいと感じていた。


 本当に自慢の母。幸いなことに自分の容姿は母によく似ている。だから心も母のようになろうと日々努力していた。


 そんなレージェに、母は。


「レージェ、大切なもののために、自分にできる最善を尽くしなさい」


 いつも言い聞かせられた言葉。目の前の母と、その言葉を胸に、レージェは生きてきた。


 最愛の母と暮らす平和な日常。幸せに溢れた安穏な日々。


 ……しかし、それは唐突に壊れて消えた。


 とある日の、母との買い物の帰り道。もうすぐ家に着くという時になって周囲の様子が一変した。


 少し離れたところから聞こえてくる複数の悲鳴。遅れてあがり始める火の手。


 レージェには何が起こっているのかわからなくて、不安で、母の手を握る力を強くした。


「お母さん……」


 呼び掛けて母の顔を見上げると、母はレージェが見たことのない切迫した表情をしていた。しかしレージェが見上げていることに気がつくと、少しだけ表情を緩めて母はレージェを見遣った。


「大丈夫よレージェ。今は早く家に戻りましょう。走れるわね?」


 正直なところ足は震えていた。けれど母のように強くなりたいと思っていたから、レージェは力強く頷いた。


「うん、走れるよ」

「レージェは偉いわね。手を絶対に離さないでね」

「うん!」


 荷物を放って母と強く手を繋いだまま家に向かって走る。途中で人が殺される光景を見てしまって、竦みそうになる足を懸命に動かして走り続けた。母のレージェの手を引く力が強くて、どれだけ事態が急迫しているのかがわかる。心が押しつぶされそうなほどの不安と恐怖に、滲みそうになる涙を懸命に(こら)えて家に向かう。なんとか家に辿り着いた二人。玄関の扉を開けて……しかし家に入ったのはレージェ一人だけだった。


「お母さんは周りの様子を見てくるから、先に部屋に入っていてね」


 レージェを家に押し込んだ母はそう言って玄関の扉を閉めた。


 どうして一緒にいてくれないのか。そう問いかける前に一人になってしまったレージェは、母の言う通り先に部屋へ向かった。家の中にいても聞こえてくる悲鳴に一人で外に出る勇気はなかったのだ。


 部屋に一人。明かりもつけずに座り込んだレージェは嫌でも聞こえてくる悲鳴に震えていた。


「お母さん……」


 早く母に帰ってきてほしくて、母の無事を祈って、ひたすら一人の時間を耐えた。


 すると、レージェにとっては長い時間が経ってから玄関の扉が開く音がした。続けて聞こえてくる足音。真っ直ぐ部屋に向かってくる。


「お母さん……?」


 母が帰ってきたことを期待して扉を見る。足音が部屋の前まで来ると勢いよく扉が開かれた。


 予想した通り、母が現れた。だが、息を切らし、汗を流した余裕のないその表情は見たことがなくて、思わずレージェは身を固くした。


 そんなレージェに急いで駆け寄ってきた母はレージェを抱き上げて、そのままレージェをクローゼットの中の奥に隠した。座らされたレージェの上に服を積まれ、反射的にそれをどかそうとしたレージェの手は母に掴まれることで制された。


「絶対にここから出てはだめよ。いいわねレージェ」

「お母さん……?」


 また自分一人になるのか。その不安な気持ちを隠すことなく、レージェは母を仰ぎ見る。


 母はいつものようなあたたかな笑みを浮かべた。瞳は愛に溢れていて、余計にそれがレージェを不安にさせる。


 母が優しく、レージェの頬を撫でた。


「レージェ、大切なもののために、自分にできる最善を尽くしなさい。あなたにはそれができるわ。お母さんは、あなたを信じてる」


 いつもとは少し違う言葉。よく見れば泣きそうな、母の初めて見る表情。愛に満ちた声音。


 レージェは耐え切れなくて涙を零した。聡明故に悟ってしまった。信じたくなかった。こんなものがお別れなんて嫌だった。


 でも、何も言葉を発せない。体は石になったかのように動かない。感情が溢れて、掻き乱されて、形にならなかったから。それが鎖となってレージェの体を縛り付けたから。


 そんなレージェの涙を優しく指で拭った母は、クローゼットの扉を静かに閉めた。


 真っ暗で何も見えない。信じがたい現状に心まで真っ暗になってしまったと錯覚する。ただ呆然と座っていた。


 だが、呆然としていたレージェの思考を引き戻す轟音がした。


 視覚が閉ざされているおかげで、聴覚が敏感になっているからわかった。玄関からした音だ。恐らく、扉が勢いよく破壊された音。続いて聞こえてきたのは複数の足音。そして、声。


「女が一人入っていったっていうのはこの家かぁ?」

「そのはずです」

「他にも住人はいるかぁ?」

「娘と二人暮らしですが、その女が外で娘を必死に探している様子を見たっていう情報がありますぜ。恐らく娘と外ではぐれたんでしょう」

「きっとその娘はもう死んでるでしょうね」


 語尾を伸ばすのが特徴的な男の声と、その男に侍るような口調で話す他の男たちの声が聞こえてくる。


 会話を聞いて、聡いレージェは理解してしまった。母がレージェを一人家に残して外に出ていった理由を。


 母は、レージェが家にいないことを周知させたのだ。レージェを守るために。――自分一人が犠牲になるように。


 理解してしまって、レージェは涙が止まらなくなった。今すぐにでも母を止めたい。一緒に隠れてほしいと懇願したい。けれど、やっぱりレージェの体は動かない。ただ震えるだけだった。


 せめて何か声を出したくても、口がはくはくと動くだけで何も言葉が出てこない。この後何が起こるのかもうわかっているのに、この体は母を守るために動こうとしない。ただ心臓を痛いくらいに動かし、口を開閉し、震えているだけ。


 不本意にも母の言いつけ通りじっとしていると、とうとう乱暴に部屋の扉が開かれた。


「お、いたいたぁ。結構な上玉だなぁ」

「……なんなんですか、あなたたちは」


 母の声が聞こえる。絶望的な状況でもしっかりした言葉を発する母は強い。それに比べて自分はどうだ。指先一つ動かせず、口が空気を吸い、吐き出すだけだ。


 ただ、耳だけはしっかり機能した。


「俺かぁ? 俺はゼス・バリアスさぁ。俺が直々に相手してやること、有り難く思えよぉ?」

「ゼス様の御眼鏡に適うなんて、幸運な女だぜ」

「お前らは気が散るから外出てなぁ」

「了解しました、ゼス様」


 複数の足音が部屋の外に出ていく。どうやら母と、ゼスという男の二人だけになったらしい。


 もしかしたら一人相手ならどうにかなるかもしれない。……頭ではわかっている。そんな可能性は僅かにしかないのだと。でも、そう思わずにはいられない。


「こんな事態を引き起こしたのはあなたなんですか?」

「あぁ。この国の人間族たちを扇動したのは俺だぜぇ?」

「なぜそのようなことを……」

「お前が知る必要はねぇなぁ」


 ゆったりした足音が聞こえる。恐らく、ゼスが母に近づいているのだろう。


「来ないでください!」


 激しい水音。きっと母の魔法だ。レージェはそれがゼスに届くことを祈った。だが。


「か弱い攻撃だなぁ」

「っ! ……かはっ!」


 水音が消え、何かが床に叩きつけられる音と振動が響いた。それから、母の呻き声。


(お母さん……!)


 母が危ない。わかっていても微動だにできなかった。


 母が殺される。そう想像して予想外の音がした。


 ビリッと、何かが破かれる音がしたのだ。


「なにをっ!? やめてくださいっ!!」

「ははっ! 綺麗な体じゃねぇかぁ!」


 ゼスの言葉で何が破かれたのかがわかった。それから、カチャカチャと金属音。聞き覚えのある、ベルトとファスナーの音。


「いや……やめて……っ!」


 ――その後はもう聞いていられなかった。いや、実際には耳を塞ぐこともできずに、ずっと、ずっと聞きたくもない音を聞き続けた。


 最初は抵抗していた母の声は徐々に小さくなり、想像したくない方法で鳴る音だけが部屋に響く。


 レージェはただ、クローゼットの中で小さくなって震え続けた。弱っていく母を感じながらただただ膝を抱えて。


 ――早く終わって。お母さんを解放して。


 そう切望しても、残酷な時間は実に長かった。正確な時間はわからないが、レージェには数時間にも感じられた。


 絶望でレージェの思考が死んでいく。


 何も考えられなくなった頃、男の声を耳が拾った。


「ふぅ、ほんと上玉な女だったなぁ」


 ゼスが満足気にそう言った時には、母の声は一切聞こえなくなっていた。


 これで終わりにしてくれるのだろうか。


 そう思ったのも束の間。信じられない言葉が聞こえた。


「さて、楽しませてもらったことだし、あとは神核を抉り取って殺せば終わりだなぁ」


 ……何を言っているのか、理解できなかった。


 これだけの事をしておいてまだそれだけ残酷なことができるのか。


 怒りと悲しみが溢れる。けれど変わらず体は動かない。それどころか、己でも信じられないことに()()()()()()()()()が生まれてしまった。


 神核が抉り取られて殺される。自分も神人族だ。見つかれば同じ末路を辿るだろう。そう想像して、恐怖してしまった。


(死にたくない……死にたくない……死にたくない……!)


 そう強く思った時、胸に埋め込まれている神核が熱を宿した。直後にふわりと己の体に纏われた何か。羽衣だった。幼いながらに、それが母に教えてもらっていた神器だと気づいた。


 これで、母を救える……?


 そう頭の片隅で思っても、やはり体は動かなかった。


 流し過ぎた涙が枯れ、涙が通った後の頬がひりひりと痛むのを感じながら、また耳が残酷な音を拾う。


 ぐちゃり、と肉が抉られる音。同時に聞こえた母の低い呻き声。それが息苦しそうなものに変わる。


 音だけでわかる。神核を抉り取られた後、首を絞められているのだろう。


 もう、母は死ぬ。


 レージェの心は限界だった。このままでは壊れて何をしでかすかわからない。もしかしたら母との最後の約束を、ここから出てはいけないという約束を破って半狂乱に飛び出して、母の死を無駄にしてしまうかもしれなかった。


 だからレージェは一時的に凍らせた。己の心を。


 聞こえる音を認識せず、体に入った力を抜いて、感じることも考えることも放棄して、人形のようにただそこに座っていた。


 母がいつ死んだのかわからない。男がいつ部屋を出ていったのかもわからない。時間がどれだけ経ったのかも。


 レージェが感覚を取り戻した時には何も音がしなかった。家の中からも、外からも。


 すると、動かしたくても動かなかった体が勝手に動き出した。


 頭の上に乗った服をどかしてクローゼットからゆったりと出る。


 下げていた視線の先にいたのは、虚ろな目で己を見つめる母の姿。


 汚れ、ぼろぼろになった見るも無残な変わり果てた姿。


「……ぁ……あぁ……」


 出なかった声も勝手に出始める。


 言葉にならない音を口が吐き出すごとに、凍らせていた心が元に戻っていく。


 氷が解けて、(ようや)く状況を認識した。


「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 頭を抱えて蹲り、絶叫する。


 レージェの心は決壊した。




 ◇◇◇




「っ……ふ……うっ……」


 あの日の出来事を思い出して、涙が止まらない。


 母の死が苦しい。あの男への憎しみが重い。


 何より、何もできなかった自分が心底嫌いだ。


「苦しいかい?」

「……ガルダさん……?」


 背後から問い掛けられて振り返ると、ガルダがそこにいた。


 真剣にこちらを見る瞳に責められているような気がして、レージェは急いで涙を拭う。


「すみません、お見苦しいところを」

「別に構やしないよ」


 そうは言われてもレージェはやはり居た堪れない。きっとそれは自己嫌悪に陥っているからだろう。


 レージェはガルダの瞳を正視することができないまま吐露した。


「私は、やはりユリィさんたちに相応しくない」

「何故そう思う?」

「私はいざという時に何もできない。そんな弱い人間だからです。だから目の前で殺される母を助けられなかった。ただ、震えているだけだった」

「……なるほどね」


 レージェのその言葉だけで、ガルダは過去に何があったのかを大体察したらしい。流石だと思う反面、察してほしくなかったとも思う。自分で吐露しておいてこの矛盾した考えにもレージェは嫌悪する。


 ガルダは腰に手を当てて、突き放すように言った。


「ユリクスたちに相応しくないと思うのなら、アイツらが進んでいく様を指をくわえて見ているといい」

「……」


 相応しくないのではないかと思っているのは本心だ。だが、いざユリクスたちの側に自分がいないことを考えるとひどく不快になった。みんなは強いのに。みんなは一緒にいられるのに。なんで私だけ。


 きっとそれが顔に出ていたのだろう。ガルダが鼻で笑った。


「なんだ、嫉妬心はあるんだねぇ」


 図星を指されてレージェは俯いた。


「……弱い自分は相応しくないと思いながら、嫉妬はする。そんな自分が大嫌いです」


 弱さ。矛盾した思考。嫉妬。その他諸々。


 自分の嫌いな面を数え出したらきりがない。


 自分が自分を嫌いなように、ガルダにも嫌われるかもしれない。そう思った矢先に予想外の言葉が来た。


「それでいいんじゃないかい?」

「え?」

「ユリクスたちが大事なんだろう? そんな奴らとの輪の中に自分が入っていなければ嫉妬するのは当たり前さね」

「でも……」


 励まされても、やっぱり弱い自分を肯定できなくて。レージェは顔を上げられない。


 そんなレージェにガルダは言った。


「過去に縛られ過ぎて、前に進めないでいるアンタは弱いよ」

「……」

「だが、弱いからといって何もできないっていうのは違うんじゃないかい?」

「え……?」


 それだけ言って、レージェの返答を待つことなくガルダは歩き去っていった。


 ガルダの背を呆然と見送ってから、言葉の意味を脳内で反芻(はんすう)する。


「弱いなりにできること……。でも、強くならないと何も……。いや、待って、違う」


 レージェは母に言い聞かせられていた言葉を思い出した。




 ――レージェ、大切なもののために、自分にできる最善を尽くしなさい。




「……そうだ。お母さんは、強くなれとは一言も言わなかった」


 レージェは胸に手を当てて、母の思いを十年越しに理解した。


「お母さんはわかってたんだ。人の弱さを」


 理解して、レージェは己の心を奮い立たせる。


「大切なもののために強くなるんじゃない。自分にできることを精一杯すること。それが大事なんだってお母さんは伝えたかったんだ」


 でも、自分にそれができるのか? 過去にできなかった自分が。……いや、そうじゃない。




 ――あなたにはそれができるわ。お母さんは、あなたを信じてる。




 最愛の母は信じてくれた。なら、やるしかない。


 あの美しく強い母の娘である自分は、このままではいけないんだ。このままではいたくないんだ。


 だって、あの人に近づくと決めていたのだから。あの人の娘なのだから。


 レージェは強き母の娘であるという〝矜持〟を魔力に変えた。


 辺りを膨大な魔力が立ち込める。


「弱くてもいい。でも、何もしないままではいたくない!」


 ――母に信じてもらったのだから。今の自分には失いたくない大切なものがあるのだから!


「私は、私の最善を尽くす……!」


 レージェの、弱い自分でも譲れないものがあるというその矜持に、アクアマリンの神核は光を灯した。






お読みいただきありがとうございます。

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