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水の都

 水の(みやこ)。アクアトラスはまさにその呼び名にぴったりな町であった。


 青を基調とする建物が多く立ち並ぶ町並み。広い町道には中央に水路が通っており、物の運搬は小舟で行っているようだった。店に並ぶ商品は新鮮な魚に南国フルーツ。アクセサリーには貝殻を使った物が多い。


 なによりユリクスたちが驚いたのは借家や宿の所在だった。検問の際に聞いてみると、なんでもこの町の奥には海の水を引いて作った広大な人工の湖があるらしい。その湖の上に借家と宿として使われている船が何隻も浮いているという。住宅は町の中にあるというのに借家と宿だけが船なのは謎だが、観光客向けのものだからと言われればまぁ納得できる。


 ちなみに湖は陸に穴を掘って作られた物なので、海と湖の境界線は浅瀬になっている。そこに強靭な鉄柵が作られているため、海から湖へと魔獣が入ってくる心配もない。故に安全性もばっちりだそうだ。


 関所前で話し合った結果、ユリクスたちは観光の前に借家を確保することにした。


「南国なだけあって、入国してからの暑さが凄いっスね」

「近づくにつれてどんどん暑くなってたから予想はしてたけど、想像以上」

「ほんとあっついわぁ。ユリィ、そのコート暑くないの?」

「……暑い」

「見てるだけで暑いから脱いでちょうだいよ」

「……」


 ユリクスは愛用している黒コートを脱いで魔道袋にしまった。ダークグレーのシャツを神核が見えない程度に思いきり着崩す。クールビズスタイルのユリクスの完成である。


「お前ぇさんたち、待たせてすまねぇ!」

「あら、やっと見つかったの?」


 息を切らして走り寄ってきたのはリューズだ。検問の際に魔力証が見つからずにもたついていたので、リューズを一人置いてユリクスたちは先に入国したのである。


「いやー、どこにしまったのか忘れちまってな! がっはっはっ!」

「魔力証をなくすのは笑い事じゃないわよ……」


 リアナが心底呆れる。その表情を呵々(かか)と笑って流し、先陣を切って歩き出す。


「さて、じゃあギルドに案内するぜ! ついてきな!」


 意気揚々とギルドに向かって歩くリューズにユリクスたちはついていく。


「おっ! リューズじゃねぇか!」

「よぉ旦那! 今日も魚の活きがいいな!」

「リューズ! 新しいフルーツを入荷したんだ、受け取ってくれや!」

「おっ! ありがとよ!」


 道中、至る所からリューズに声がかかる。挨拶だけでなく、中には商品をタダで譲ってくれる人もしばしばいた。ギルドに着く前にリューズの鞄の中身は受け取ったものでパンパンになる。


「リューズ、人気者なんだね」

「そんなことねぇさ。この町の人たちがみんな親切なだけだぜ」


 いくら親切でも商品をこんなに譲ってくれるわけないだろうと、ユリクスたちは内心でツッコミを入れた。


 その後も、町の人からリューズへの貢ぎ物攻撃は続く。


「ほら、ここがギルドだ」


 リューズが受け取った物で鞄のみならず腕の中までいっぱいになり始めた頃、一行はギルドに到着した。


 アクアトラスのギルドの外観も、町と同じように青を基調とした清潔感のあるものだった。敷地内に魚の入った水槽や小さな噴水まであり、重々しさはどこにもない。ギルドだと教えてもらわなければ素通りしてしまいそうなものだった。


「じゃあ俺ぁもう行くな。必ず恩は返すからよ。またな!」

「ありがとうっス!」

「またね、リューズ」


 手を振る代わりにニカッと無邪気に笑って、リューズは去っていった。


 リューズを見送ってからギルドに入ると、内観もまた今までのギルドとは一風変わったものだった。


 多くの水槽が目立ち、所々に貝殻や魚などを模したイラストや飾りがある。酒場もあるが、酒場自体も利用客である冒険者たちも皆穏やかで清潔感があり、緊張感はまるでない。本当にギルドだということを忘れてしまいそうだ。


 ギルドカウンターに向かうと、職員たちは皆軽装でこちらも重苦しさはない。良く言えば親しみやすそう、といったところか。ユリクスたちが近づいてきたことに気がつくと、穏やかな笑みを向けられた。


「御用件をお伺いします」

「……依頼のことで尋ねたいことがある」

「はい、何でしょうか」


 ユリクスは蠍種の魔獣の巣穴での討伐が既に成されていることを話し、冒険者からその報告を受けているかどうかを尋ねた。ギルド職員が報告履歴を確認する。


「そのような報告はされていませんね……。こちらでも巣穴の確認を行います」

「……頼む。それから借家を借りたい」

「かしこまりました」


 無事、借家の契約が完了した。なかなか大きい借家、すなわち船を借りたことになるので、ティアとライトは早く見てみたくて仕方ないようだ。


 ギルドを出て町道を歩く。


「楽しみっスー! どんな船なんだろ!」

「私、船もそうだけど、海とか湖を見るのも初めて。早く見てみたい」

「あたしも船に住むのは初めてだわ」

「……」

「兄貴もちょっとワクワクしてるっスね?」

「……してない」

「ねぇ、あれ」


 雑談を交わしながら歩いていると、ティアが何かに気づいて指をさした。その方向に視線を移動させると、そこにはリューズがいた。たくさんの人に囲まれている。


「おい旦那! この資材はこっちに運べばいいのかい?」

「あぁ、そこで大丈夫だ。いつもありがとうな」

「いいってことよ!」

「リューズ、すまねぇがこっちの手伝いも頼むよ!」

「おうよ! すぐ行くぜ!」


 リューズが人々の手伝いを率先して行っていた。どうやら馬車で話していた人助けの話は本当だったらしい。


 しばらくその様子を眺めていると、自分に向けられる視線に感づいたのか、リューズもユリクスたちの存在に気がついた。人々に一言告げてから小走りで近づいてくる。


「おーお前ぇさんたち! 借家は無事決まったかい?」

「決まったっスよ!」

「なら場所のメモもらってもいいか? 後で訪ねるからよ!」

「了解っス!」


 ライトが魔道袋から出してもらったメモに借家の場所を書いて渡す。そのメモを見たリューズは目を見張った。


「随分でけぇとこ借りたんだなぁ。お前ぇさんたち相当の金持ちか?」

「兄さんがお金持ちなの」

「へー、そりゃすげぇなユリィ」

「……別に」

「がっはっはっ! 照れんな照れんな! じゃあ夜にでも訪ねるからな! 今はまだ手伝いが残ってんだ。また後でな!」

「また後でっスー!」


 呵々(かか)と笑いながら、集まる人々の輪の中にリューズは戻っていった。


「わざわざ訪ねてくるだなんて、ほんと律義ねぇ」

「そうだね。でもリューズと話すと面白いからまた会えるなら嬉しい」

「そうっスね!」

「……あれのどこが面白いんだ」

「まぁ兄貴にとってはうるさいだけかもしれないっスね」


 再び雑談を交わしながら歩くこと二十分程。一行は湖に到着した。


「すごい」

「綺麗っスねぇ」

「水の都とまで言われてるだけのことはあるわね」


 湖の広大さはユリクスたちの想像以上で、海と言われても納得できてしまう程であった。そしてその水質もまた想像以上。光を反射してきらきらとエメラルドグリーンに輝いている。透き通っていて浅い所では下まで見えてしまう程に綺麗な水だった。


 そんな湖に浮いている何隻もの船も、どれも丁寧に手入れがされていて船体が白く輝いている。装飾も派手過ぎずに垢抜けていて、いつまでも見ていたくなるものばかりだ。


 ユリクスたちは湖の光景に目を奪われながら、自分たちの借家を探す。そして、見つけたものはリューズが驚くのも無理もないものだった。


 十人以上が住んでも余裕がある程の大きさで、華美な装飾も相まってまるで小さな豪華客船のよう。


 ティアとライトとメラは瞳をキラキラと輝かせて我先にと借家に入っていく。後に続くユリクスとリアナの歩調も速い。


「すごいっス! 豪邸っス!」

「すごい。こんな綺麗な家初めてみた。景色も最高」


 中に入ってみると、迎えてくれたのは洗練された豪華な家具。加えて多種多様の魚が入った大きな水槽まである。窓から見える景色には他の船がなく、美しい湖を一望できる特等船。まさに観光客を喜ばせるためだけに造られた船だ。観光客といってもそれはもう極々一部の富豪のことだが。


「ユリィ、あんた一体いくらの借家を借りたわけ?」

「……五十万コルン」

「いつも大きい借家って言ってるあたしが言えたことじゃないけど、限度ってものがあるでしょうに」

「……」

「あ、わかった。船と湖にはしゃいでる二人とメラを喜ばせたくて奮発したわね?」

「…………違う」

「じゃあ自分も内心はしゃいでいるのね?」

「…………違う」

「はいはい、両方ね」

「……………………違う」


 山育ちのユリクスも海と湖は初めてなのである。


 あっちもこっちもと一頻(ひとしき)り借家の中を堪能しているうちに、昼食の時間になった。


「兄貴、昼食は町に出て決めたいっス!」

「そうだね、色々売ってそう」

「折角だから観光名所を散策しましょう」

「……そうだな」


 普段ならば散策も面倒だと言っているユリクスも、今回ばかりは素直だ。


 一行は借家を出て町を歩く。並んでいる店だけでなく、町道に水路が通っているのも、そこで小舟が行き交っているのも珍しくて思わずみんなできょろきょろしてしまう。


 アクセサリーショップを見かければティアとリアナが、アクアトラスの魚やフルーツの特産物を売っている店があればライトがどんどん引き寄せられていく。


 その様子にやれやれとするユリクスだったが、それを非難する気持ちはなかった。そこでようやく、自分もこの町に関心を持っていることに気がついた。今までどこで何を見ても何の感慨も抱かなかった自分がだ。


 この町には見たことのないものがたくさんあるからか? いや、今までも見たことがないものはあった。ではこの町が美しいからか? そもそも、自分が何かを見て美しいと感じたことがあっただろうか。


 ユリクスは自身の心境の変化に戸惑い、そして自問した。今までと何が違うのだろうか、と。ユリクスは楽しそうに店を見ているティアたちに視線を向ける。


 ――そうか、一人じゃないからか。


 ユリクスは納得した。恐らく、ティアたちと出会う前にこの町を訪れていたとしても、きっと興味なんて抱かなかっただろうから。


(……これが〝興味〟か……そういえばそうだったな……)


 かつて、幼かった自分も持っていた感情。それを一つ、ユリクスは思い出した。まだ自分にも家族がいた頃。興味のままに様々な店へと両親の手を引っ張っていた、あの頃。そして、その興味を共有していた、〝あの子〟。


「ッ……!」


 同時に思い出される地獄の光景。ユリクスは息が詰まった。息が苦しい。心臓の鼓動がうるさい。


「兄さん?」


 気づけば目の前にティアがいた。背伸びをして自分の顔に一生懸命手を伸ばしてくる。屈んでやると、ティアの小さな手が頬を優しく撫でた。


「大丈夫? 疲れちゃった?」

「……いいや」


 ユリクスはゆっくりと息を吐きだした。心臓の鼓動が落ち着いていく。少し蒸し暑い空気が肺に流れ込む。心配そうなティアの瞳を見据える。


「……何か良い物は見つかったか?」


 気づけばそんな言葉を発していた。


 ユリクスからの珍しい問いに、ティアは驚いたように目を丸くする。だがすぐに微笑んで頷いた。


「うん。そこのお店にね、綺麗な貝殻の首飾りがあったの。とっても素敵だった」

「……そうか」


 ユリクスはティアの手を引いて、その店に向かった。ティアはユリクスの行動に驚いていたが、ユリクス自身も少し驚いていた。恐らく、昔を思い出したからその感覚に引っ張られているのだろう。ユリクスはそうどこか客観的に考えて、自らの行動を止めることはしなかった。


「……これか」

「うん」


 それは少し大きめの二枚貝の片側を加工して作られた首飾りだった。この町にしては珍しくほんのり桃色をしている。


 ユリクスはそれを手に取ると店員の元に持っていき、購入した。


 ティアに近づいて首飾りをつけてやる。思った通り、ティアによく似合う。


「ありがとう、兄さん」

「……あぁ」


 心から嬉しそうに、可憐に微笑んだティアの頭を撫でてやる。ティアはそれにも驚いたが、すぐに破顔した。


「あらあら、珍しいこともあるものねぇ」

「兄貴はティアの姉御のこと大切に思ってるっスからね」


 一部始終を見ていたらしいライトとリアナとメラがニヨニヨしている。ユリクスはその表情を見て仏頂面になった。確かに、自分にしてはらしくない行動をした自覚はある。だから余計にいたたまれない。


「……食事はいいのか」

「そうね、そろそろ食事処を探しましょうか」


 話を逸らしてもライトたちはニヨニヨしたままだったが、ユリクスは無視する。


 歩きながら少し視線を下ろすと、ティアが嬉しそうに首飾りを弄っていた。その様子を見れば、多少ライトたちに弄られても買った甲斐があるかと思いなおして溜飲を下げた。


 しばらく歩いていると、食事処や屋台のある通りを見つけた。


「ほえ~、いっぱいあるっスね。魚の串焼きに魚パン。魚コロッケ……」

「こっちにはフルーツを使ったスイーツがたくさんあるね」

「南国の海の町だから、どこも魚と果物が美味しそうねぇ」

「……おい、あいつはどうしてここにもいるんだ」


 ユリクスの視線の先を見てみると。


「へいらっしゃい! 新鮮な魚を使った海鮮丼だぜー! 食っていかないかー!」


 なんと、ここにもリューズがいた。


 ティアとライトを先頭にリューズのいる店に向かう。


「おう! お前ぇさんたちか! よく会うな!」

「リューズの旦那がどこにでも居過ぎなんスよ。ここでは何をしてるんスか?」

「この店の店主のじいさんがぎっくり腰になってな。だから俺が代わりに店をやってんだ」

「何を売ってるの?」

「採れたての魚を使った海鮮丼だ!」

「あら、魚を生で食べるなんて珍しい料理ね」

「新鮮な海の魚を使えるこの町ならではの料理なんだぜ!」


 魚は調理して食べるのが主流だ。ユリクスたちは誰も魚を生で食べたことがない。というわけで、昼食はここで食べることにした。


 店の外にあるテーブル席に座り、全員で海鮮丼に向き合う。お米の上には魚の身と思われるものが多種乗っていた。赤いもの、オレンジのもの、白いもの。中には赤い粒粒したものまで乗っている。


 初めてのものを前にして多少緊張しながら、揃って一口。


「……美味しい」

「……美味しいわね」

「……美味いっスね」

「……美味いな」


 そこから全員の手は早かった。次々と口に海鮮丼を運んでいく。ライトに至ってはかき込んで飲むように食べている。


 ものの数分で全員が完食した。食器を下げにリューズが歩み寄ってくる。


「がっはっはっ! 美味かったろ!」

「めっちゃ美味しかったっス! リューズの旦那、ボクもお店手伝うから海鮮丼の作り方教えてほしいっス!」

「おう、いいぜ!」

「あらあら、ライトの料理の腕が更に上がっちゃうわね」

「リューズ、ライトをよろしくね」

「おうよ、任せろ!」


 海鮮丼の美味しさに魅入られたライトと別れて、ユリクス、ティア、メラ、リアナは散策を再開する。


「今度は海に行ってみない?」

「海、行ってみたい」

「……好きにしろ」


 町道を通って湖まで戻り、湖の周囲をぐるっと回りながら海に向かって歩く。湖と海の境界線までやってくると、そこは砂浜になっていた。


 足元がふかふかする初めての感覚に、ティアとメラは駆け回り始める。押し寄せてくる波を追いかけたり、逃げたりととても楽しそうだ。


 ユリクスとリアナは海をしばらく眺めた後、海と湖の境に意識を向けた。境界線には湖の端から端まで続く巨大な鉄柵がある。


「……この鉄柵で湖に魔獣が侵入してこないというわけか」

「綺麗な海と湖の境にこんな無骨なものがあるのは残念だけど、安全のためなら仕方ないわね」


 この鉄柵により、海から人魚種の魔獣が侵入できなくなっている。人魚種の魔獣は水中だけでなく空中を浮遊することも可能だが、知能が低いのでわざわざ高い障害物を避けて侵入してくることはないのだ。だが万が一侵入してきた時のために、湖の端には四六時中見張りの警備員が立っている。なお、風魔法を薄く広く展開する感知用の魔道具が設置されているため、警備員の目の届かない位置から何かが侵入してきても感知可能だ。


「それにしても、波の音が気持ちいいわねぇ」

「……そうだな」


 少し離れた場所まで駆けていったティアとメラと追うように、ユリクスとリアナもゆったりと砂浜を歩く。


「……どうした」


 歩きながら海を眺めるリアナの表情がどこか寂しげなことに気づき、声を掛ける。


「新しい景色を見るたびに、今でも思うのよ。この景色を彼と見られたらって」

「……殺された恋人か」

「そう」

「……何故殺された」

「デリカシーないわねぇ。人の傷(えぐ)るようなこと聞いちゃって」

「……すまない」

「いいわよ、別に」


 リアナは昔を思い返すように目を細めた。視線を海に向けたまま、ぽつりぽつりと話し出す。


「……イリスは、誰にでも愛されたがる性格だった。注目が自分に向いてないとだめ。誰もが自分を一番に考えてくれないとだめ。だから、誰かが愛し合っているだけで不機嫌になるような女だった。男を寝取ることも多かったわ。あたしは彼女の考えが理解できなくて、何度も彼女を非難した。そんなあたしが彼女は相当嫌いだったのでしょうね。……イリスはあたしの恋人……レイシアに目を付けた」

「……」

「イリスはレイシアに自分を愛するように迫った。でも、レイシアは(なび)かなかった。それだけでなく、イリスのその利己心を指弾した。……そんな時よ、〝決別の日〟が起こったのは」

「……」

「自分を非難するあたしたちが許せなかったのでしょう。〝決別の日〟、イリスはあたしの目の前でレイシアを殺した。自分を愛さないからこうなるんだと、そう言っていたわ。そして、あたしのその絶望顔が見たかったと、そう言って笑った」

「……」

「相当酷い顔をしていたんでしょうね。あの心底嬉しそうな高笑いは今でも耳にこびりついて離れてくれないもの。……あの時は混乱が激しくて、どうやってあの惨状の中生き延びたのかはあまり覚えていないけれど、それでも、あの女があたしとレイシアにしたことは忘れない」

「……それで、復讐か」

「そうよ。あの女を見つけて、今度はあたしがあの女を絶望の淵に叩き落としてやるのよ」


 リアナの声音は決然としているようで、多くの悲愴を孕んでいた。


「……そうか。……だが、それだけのことがあって、今でも慈愛の心が持てるというのは……すごいことだと……思う」

「それもしかして慰めてるの? 相変わらず不器用ね」


 リアナが呆れたように笑う。しかしすぐに顔を俯かせ、ユリクスの言葉を否定した。


「慈愛の心があるなんて、勘違いよ。今のあたしに愛なんてない。もう誰かを愛するなんて、懲り懲りだもの」

「……」


 ユリクスにも正直、愛なんていうものはよくわからなかった。だが、リアナの奴隷解放軍のことを話していた時の表情、そして時々ティアたちに見せる表情は、とても優しい。それは慈愛とは違うのだろうか。ユリクスにも答えは出なくて、何も反論の言葉は出てこなかった。


「……ユリィは? あんたも何か抱えているんでしょう?」

「……俺は……」


 思い起こされるのは、鮮烈な〝赤〟。そして、小さな〝あの子〟。


「兄さん、リアナ」


 思考に耽っていたユリクスの意識はティアの声に引き戻された。リアナも視線をティアに転じる。ティアは顔を真っ直ぐに海に向けていた。とても真剣な顔つきだ。


「……どうした」

「……」


 ティアは黙ったまま答えず、海の先を指さした。そしてようやく口を開く。


「……今、何か影が見えたような気がしたの」

「影?」

「そう、影。とても大きな、影」


 ユリクスとリアナは海へと視線を向けるが、そこには美しい水が波打っているだけで何も見えない。


「何もいないわ」

「……ごめんなさい。気のせいだったかも」


 ティアが視線を海から逸らしてこちらに歩み寄ってきた。メラは心配そうにティアの足に寄り添っている。


「そろそろ日暮れね。借家に帰りましょうか」

「うん」

「ガウ」

「……」


 ティアたちが借家に向かって歩き出す。しかしユリクスは海の向こうへと鋭い視線を向けていた。確かに影らしきものは何も見えない。だがティアの勘違いとして終わらせていいのだろうか。ユリクスは言いようのない胸騒ぎを覚えた。


「ユリィ、置いていくわよ」

「兄さん、帰ろう」

「……あぁ」


 ティアたちに呼ばれ、ユリクスは海に背を向けて歩き出す。


 昼の海は日差しを反射してきらきらと輝き、美しい。しかし日が沈むにつれ光を失い、エメラルドグリーンは闇に染まる。それは自然の摂理。だが、時にそれは凶報と成り得るのかもしれない。とはいえそれを、人間が予期することは決してないのである。






お読みいただきありがとうございます。


次回の更新は30日です。

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