第二章・あっちの世界? -1
途端、またまわりが歪んだ。
ゆわん……
一瞬の気持ち悪い目眩の後、俺は元の嘘石畳の路に立っていた。
「まじまじ、げきまじー」「ええー」「ばっかじゃねー」なんの話をしてるのか、楽しげな三人娘の甲高い声が響いてる。
呆然として俺は、さりげなーくどころか、至近距離の真っ正面から彼女らの顔をじっくりと眺めてしまった。順番に。阿呆のような顔をして。おそらく。
「きも」
俺の阿呆の視線によって〇・五秒ほど金縛りにあったヘソ出しミニスカたちは、行ってしまった。立ちつくす俺にひどい言葉を投げかけて。
うわーん。ちょっと待てー。
さらに呆然として、彼女たちのかっちょいい尻が並んで遠ざかっていくのを見送っていた俺は、パキーンと頭をはたかれた。
いつもの痛さだ。だから痛いっての、それー。
「なにやってんだよ。バカタレが」
「消えてましたよ。今、一瞬ですが」
シナツヒコとワカサヒコが、あいかわらずフワフワしながらこっちを見ていた。斜め上から。こいつらにはいつも見おろされている。いいけどさ、別に。
「んー、なんかヘンなとこに行ってた」
「ヘンなとこ、だぁ?」
こいつらにも関知できないものがあるんだろうか。珍しく、シナツヒコの口から疑問形の台詞が出た。
「木ばっかのとこだった。空が青くて」
「誰かいましたか?」
また疑問形だ。なんか調子狂う。
「声が聞こえた。スーサーノーオ──って、なんかキモイの。今朝から聞こえてた」
「今朝から?」
「うん、最初は夢かと思ってたけど。起き抜けだったし。お前ら、聞こえなかったん?」
おじゃる丸みてーな古風なカッコしたふたりの子供が、怪訝そうに顔を見合わせる。空中で。房の付いた組みひもで無造作にひとつに結わえた髪の毛の先が揺れている。ちなみにシナツヒコの組みひもは緑色、ワカサヒコのは水色だ。
こいつらってば、ヘンなカッコはしてるけど、顔はふたりともジャニーさんもびっくりの美少年顔なんだよな。シナツヒコはつり目のしょう油顔、ワカサヒコはお目々ぱっちりソース顔。見た目の年の頃は十歳~十二歳ってとこ。ジャニーズジュニアなんかに入ったらよさそうな、そんな感じだ。
シナツヒコは毒舌のツンデレ、ワカサヒコはおぼっちゃま系敬語キャラ?
腐女子なファンがついて、似顔絵なんか描かれちゃって、いわゆる薄い本てやつに登場させられちゃうんだ、きっと。でもって、あーんなことやこーんなことをさせられちゃって、うひひ。
でも、いっくら顔が綺麗でも、こいつらってば普通の人には見えないから、テレビに出て歌っても踊っても誰にも見てもらえないのさー。宝の持ち腐れさー。
そんなことを考えながらぼけっと空中の美少年たちの顔を眺めていた俺は、背後から近付く足音で我に返った。この暑いのに、律儀に腕を組んでぺったりくっついた一組のカップルが歩いてくる。狭い路の真ん中に突っ立って(普通の人の目には)なにもない空中に向かってなにやら話しかけてる俺を気味悪そうに見て、なるべく距離を取って、追い抜かしていく。「メンヘラ」「だいじょぶか」「最近多い」などなどの言葉が切れ切れに聞こえた。
あああ───! 違う! 違うんです──。これは、普通の人には見えないモノと話をしてるだけなんで……。
ん?
普通の人には見えないモノが見えるって時点で、もはやメンヘラ確定か、俺。がくーり。
俺ってビョーキ? ねえビョーキなの?
やっぱ普通の人が、フワフワ空中に浮かんでる子供と話ができるなんつったら、それはビョーキだよな。
でも俺、ビョーキじゃないよ? でも普通だよ? ねえ、普通だよね?
ああでもでも、普通だってことはビョーキだってことで、ビョーキじゃないってことは普通じゃないってことで……。
あ────!
どうしたらいいんだ────っ!!
「おまえ、いい加減、その『自分は普通だー!』ってのやめろよ。あきらめの悪いやつだなー」
あれ? なんか、シナツヒコさん、口調が優しいんですが、どうかしましたか?
「えーと、ですね。名前を呼ばれたとかヘンな所に行ったというのは、あっちの世界からお呼びがかかったということだと、思われます」
え?? あの、話が見えないんですけど、ワカサヒコさん。
あっちの世界って、あの世ってこと? 俺、死神さんにでも呼ばれてんの?
…………。
い──や────っっ!!
まだ死にたくない────!!
俺様二十歳。まだまだヤリたいこととかヤリたいこととかヤリたいこととか、いっぱいあるんですよっっ!
しかも、お呼びがかかるって、死んじゃうにしても、普通そんなのわかんないんじゃないの?
死ぬ前には、うらめしや~な声で名前呼ばれるって、それってみんな経験すること?
ねえ? それ普通?
「だーかーらー、おめえは普通じゃないんだって、何度言ったらわかんだよっ!」
パキーン。
いつもの痛みが俺をパニックから救ってくれた。ビバ、日常。普通じゃなくともこれが俺の日常。
「あの、ですね。あっちの世界っていうのは、龍吉が説明していたと思うんですが、覚えていませんか?」
覚えていませんかって、言われてもねえ。親父は失踪八年目だよ。親父がいた頃は、俺、小学生だったんですよ、いじめられっ子の……。
「この世界は一枚の紙の上に存在しているようなもんなんだ。今、目に見えている世界は紙の片面に過ぎんということだな。ということは、紙のもう片側というものも存在するわけだ。それを、まあ仮にあっちの世界、と儂は言っているんだがな」
あー、なんか言ってたかも。思い出した!
でも、これって観念的にこの世界のあり方を説明するために親父が作った、例え話だったんじゃねえの?
この世界も目に見えるものだけで成り立っているわけじゃないんですよっていう、なんつうか、普通の人には見えない黒いのや白いのの気配や、バケモノが見えちゃうことの説明をつけて、俺に納得させるためにさ。
だから、この話を聞いた時、「こっちの世界」ってのは普通の人が見ている普通の世界で、「あっちの世界」ってのは、その裏側にある気配やらバケモノやらが充満している世界で、普通は目に見えないものなんだけど紙一重でこっちと繋がっているものなんだよと、で、その紙の向こうが見えちゃうのが俺らなんだよと、そんな風に親父は言ってるもんだと俺は理解していたんだけれども……。
「違います」
きっぱり否定。
「おまえ、小学生だったくせに、龍吉の話をそんな抽象的なとこに、よく持ってったな」
うん、俺神童だったから。今は普通の人だけど。
「そんな難しい例え話じゃないですよ。龍吉は言葉通りのことを言っただけです。あっちの世界は本当にあります」
紙の裏側に? この世界は一枚の紙の上に存在?
思わず足元を見る。紙ぺら一枚の上に土が乗ってコンクリが乗って俺がいる……そう思うとなんだか急に地面が頼りなく思えてきた。
「だからー、そこんとこは例え話なんだよっ。わかんねえやつだな」
「でもまあ、一枚の紙の裏表っていうのは言い得て妙ですよ。あっちとこっちと、描いてある絵はまったく違っているのに、寄って立つところは同じだから、こっちで土台が歪んだらあっちでも歪みが生じますし。あっちから穴を開ければ、こっちにも穴が開くと、相互に影響し合っているという点で紙の裏表なんですよ。しかも、板でも布でも岩でもなく紙というところも、一見、かたそうに見えてもほんの少しの力を加えるだけで折れたり曲がったり破けたりともろいとか、一回破損したら元に戻すのが簡単にはいかない、とかいう点でも共通の特性でもってうまく言い表していると思います」
う──ん……。
「あのさ、それって、要するにパラレルワールドってこと?」
四次元世界、異次元世界、多次元世界……なんとでも呼んでください。
今までどっちかというとオカルト風味の俺のまわりだったけど、SFな要素までからんできちゃったよ。どうしよう。
「あっちとかこっちとかそっちとか、世界がいっぱいあるとかいうこと?」
恐る恐る聞いてみる。パラレルワールドものは正直苦手だ。頭こんがらがる。そんでもって、それぞれにちょっとずつ違う自分がいたりすんのな。そっちの俺とこっちの俺がごっつんこで核爆発が、とかさー。あーやだやだ。
「いや、今んとこ、あっちとこっちのふたつだけだ」
「だから、裏表に例えたんでしょうね、龍吉も。そしてちなみに存在してる人間はそれぞれ別です」
ああ、よかった。ふたつだけなら、まだ把握できる。もうひとりの俺がいるとかもなくてよかった。要するに行ったり来たりしても問題ないってことなのね。
ん? 行ったり来たり?
「で、なんで、あっちの世界から俺が呼ばれないといけないのよ」