第一章・俺を呼ぶ声 -2
電車と地下鉄を乗り継いでたどり着いたところは、俺が通う大学キャンパス。
一流とは言えないけれども三流とも言えない、細かく言うなら二流の上ってレベルの私立でございますよ。
俺がほんの少しの努力でもって入れる偏差値の学校の中じゃ、人文系に強いって理由で選ばさせていただきました。
学部は文学部。専攻は日本文学でございます。
別に日本文学が好きで好きでたまらないわけじゃなく、うちには親父が研究のために集めた日本上代文学、日本古代民俗学関係の本がぎっしりみっしりあるんですよ。それらを絵本代わりに読まされて育った俺の自然な進路選択っつったら、やっぱ日本文学専攻でしょ。文化人類学とか史学関係でもよかったんだけど、フィールドワークとかしなきゃなんなくて面倒そうだったからね……。ま、その程度の興味ってこってすね。
ゼミは日本上代文学。古事記とか日本書紀とか上代歌謡とか、そんなお勉強をしていますの。
でも今日の三限目はおフランス語。第二外国語にフランス語を選んだのは別に意味はない。英語に一番近いということを聞いて、覚えやすそうだったから。大誤算だったけどな。コマンタレブー。
校門を入り、文学部の校舎へ向かう小径を歩いているときだった。
「スサノオ……オーオー……」
ん??
振り向いても誰もいない。
「スサノオ──……」
だいたい、学校の中で俺のことを「スサノオ」と呼ぶ人間は少ない。
この「スサノオ」ってえ名前で幼少のみぎりからさんざんいじめられた俺は、自己紹介するときには「高木です」としか言わないし、ちょっとでも仲良くなったやつには「高木って呼んで」とお願いしてる。なので、心ある友達はみんな「高木」と呼んでくれるし、友達じゃないやつらは、俺がスサノオなんて名前とは、ほとんどは知らないはずなんだ。
今どきの子供は日本神話なんて知らないから、小学生くらいなら「スサノオ」って言われたって「なんか珍しい名前だねー」ですむはずなんだけど、それなのになんでいじめられたかというと、それはひとえに小学校の担任どものせいだ。
学校の先生ってのは、俺がかわいらしく「たかぎすさのお、ですっ」と自己紹介すると、なんでか嬉しそうに、なんにも知らないはずのクラスメイトたちに説明をしたがるのだ。
「みんなー、スサノオノミコトって知ってるかー?」
「知らなーい」
「スサノオノミコトとゆーのはなー…」
で、やらなくともいい説明を延々と始めやがる。
近頃の子供が知らない日本神話の話をするいいきっかけができた、くらいに思ってるんだろうが、こっちはいい迷惑なんだよっ!
「スサノオノミコトは日本神話に出てくる神様の名前で、一番えらいアマテラスオオミカミの弟なんだ」くらいでやめてくれればいいんだが、もちろんそこでやめてくれる人は少ない。有名な天の岩戸のくだり(タカマガハラで、田んぼ荒らしたり、うんこまき散らしたり、馬の皮を剥いで屋根から投げ込んで、そのせいで機織りの女の人が死んじゃったり、そんなこんなのスサノオノミコトの乱暴狼藉のために、アマテラスオオミカミさまが天の岩戸に隠れてしまうっていうアレですね)まで話して、そこでハッと気付くのだ。
「あ、ま、まあ……、高木くんはそんな乱暴者じゃないだろうし、きっと、高木くんのお父さんやお母さんも、スサノオノミコトみたいな、強い神様のようになってほしくて同じ名前をつけたんだろうね。スサノオノミコトは、タカマガハラを追い出された後、イズモノクニを荒らしていたヤマタノオロチを退治したりして……」とかなんとか、フォローしようとしても、もう遅いっつうの。そしてだいたいその辺で時間切れのチャイムが鳴って、クラスメイトたちの頭には、「スサノオ=乱暴者」「スサノオ=うんこたれ」という図式だけが残るっつう寸法だ。くっそ──。
いっくら日本神話関係が専門分野だからって、息子にこんな名前を付けやがった親父を恨まない日はないぜ。
あ、うそ。最近はそんなこと忘れてんだよ。ガキの頃は結構恨んでたけどな。名前って後から変えられないのか、とか本気で調べたりもした。めんどくさくなってやめたけど。
小学校一年と五年のときの担任が特にひどかった。五年のときの男の担任なんか、俺のことを「ミコト」なんて呼んでたもんな。センコー、いじめに荷担するの図だ。訴えてやる。
ま、そんなわけで家族とシナツヒコ、ワカサヒコ以外のやつに下の名前で呼ばれるのには、深──いトラウマがある俺なのだ。
俺のことを「スサノオ」と呼ぶやつぁろくなやつじゃねえ! 顔貸せゴルァ。表へ出ろぃってんだ!
「スサノ──オ───……」
こんっなに説明してんのに、まだその名前で呼びやがりますかっ。誰だよ、ったくよー。
通り過ぎてきた後ろには、やっぱり誰もいない。さわやかな風が無人の小径を吹き抜けてゆく。
上を見ても、そこには路の両側に植えられた桜の木の枝が葉を茂らせ、緑のトンネルをつくっているだけだ。
ああ、木漏れ日がまぶしいわー。
前方五メートルほどの曲がり角には、女子が三名立ち話中。三名中二名がヘソ出し、一名がミニスカ。
夏ってイイネ! まぶしいネ!
身のまわりどこを見ても、平和な光景だ。
俺をいじめようって誰かが隠れてるなんてこたあないだろね。そんな暇なことをしようって大学生は、いないだろうなあ。いないといいなあ。小学生じゃないんだから、そんなんいたらキモイもんなあ。
そんなキモイ人間じゃなく、バケモノの姿も気配も、今のところ近くにはない。
あのバケモノさんたちは、俺の名前を呼ぶなんてフレンドリーなことをしたことはない。やつらは、俺が誰かなんて頓着してない、と思う。自分たちの存在を関知できる相手なら、誰でもいいんじゃないだろうか。
普段誰にも見てもらえないもんだから、たまに見える人間がいると、嬉しくなって襲ってきちゃうんだ。きっとそうだ。
やつらの「ぐおえあお~~~~~!!」の呻き声は、「あーそーぼー」なんだ。
もう~、寂しがり屋さんなんだから~。
感情表現が下手なんだな、あと力の加減がわからないんだ、きっと。きっとそうだ……。
…………んなわけあるか────!
「スサノーオ──オー」
まだ、聞こえる。しつこいよ。
これは、夢じゃないよな……。
古典的作法にのっとって、ほっぺたをつねってみたけど、目は覚めなかった。
じゃなくてー、俺は寝てません!
普通は見えないバケモノが見えたり、気配を感じたり、夢かうつつかわからねえ毎日を送ってる俺だけど、自分が寝てるか起きてるかくらいはわかる。わかる、と思うよ。たぶん。おそらく。
このわけのわからん状況で、俺のできることといえば……。
「やえがきっ」
かしわ手を打って、念のための結界を張り直す。
だって、これくらいしか思いつかねえんだもんよ。
ピイイイ────ンと空気が鳴って、その一瞬あとに、俺のまわりが歪んだ。
「え?」
ゆわん、と妙な具合に目の前が揺れて、ガキの頃のバス遠足を思い出した。ゲロゲロの酸っぱい思い出。
ふらつきそうになる足を踏ん張る。
踏ん張った自分の足元が、なんだかフワフワして頼りないんで、なんだろうと見おろしてみると、俺の足は踝のところから下が、みっしりとした緑の草の中に埋もれていた。
踏み固められていない、柔らかい草の生えている地面に立っているために、俺の足の下には微妙なクッションが効いているっつうわけだ。
え──、と。
草?
ここは、学校の文学部校舎裏の抜け道だよな。コンクリのブロックが埋め込まれた、嘘石畳の道だったはず……。
それが、なんで、草? それもみっしり。
顔をあげて、辺りを見まわす。
今どき珍しく都心にある、わが母校のキャンパスは、狭いながらもそこそこ緑が多くて、この小径も両側が桜並木になっている。春は花吹雪、今の季節は緑の葉が頭上を覆う、なかなか素敵な環境なんですのよ。
でも、所詮都会の真ん中だ。枝の間からは五階建ての無粋な灰色の校舎の壁が見えてるし、その向こうには、キャンパスのすぐそばに最近できたタワーマンションの威容がそびえている。
そびえて、いる?
いない。
校舎の壁?
見えない。
見渡す限り、緑、緑、緑……濃い緑の葉が幾重にも折り重なって、その向こうは見えない。
見あげると、葉っぱの隙間から、あり得ない青さの空が見えた。
ココハドコ?
さっきまで、すぐそこにいたヘソ出しミニスカ女子たちの姿もない。「やーだー」「うそうそ」「まじー?」って言ってたのに。すれ違うときは、三人のうちどの子が一番好みか見てやろうと、さりげなーく顔を見る仕草も、心の中でシミュレーションしてたのに。
いない。
そもそも、彼女たちが立ち話してた曲がり角が、ない。
え──ん。なんだよ、ここはよー。
「スーサーノーオ──オー……」
声が、聞こえた。前よりも大きく、はっきり聞こえる。
今までは男の声かと思ってたけど、女の声かもしれない。「うらめしや~」とか言いそうな、そんな感じ。恨まれる覚えはないけど。いや、人間どこで誰に恨まれてるかなんて、わからないからね。恨まれてるのかも。
でも、この声に殺気は感じられないんだよな。なんせ「うらめしや~」だからいい感じはしないけど、いつものバケモノみたいな問答無用な「喰っちゃいます!」ってな、差し迫ったものはない。
もしかして、この声に呼ばれて、俺、ヘンなとこに来ちゃった?
俺になんか用?
「俺になんか用?」
声に出して言ってみる。




