なけてくるなー
「……勇魚に近付くな」
昼休みが少し過ぎた時間。
薫は人気のない屋上階段で、葵と対峙していた。
向き合った葵は、きっちりと夏服のシャツを着こなし、少し長めの前髪をヘアピンで右わけで留めている。これは休み時間、いすゞが施していたのを見た。むかつかなかったとは言わない。まあむかついた。
そして向き合った途端、葵が口にしたのが上のそれである。
まあ、十中八九それだろうな、と予想していたので、驚きはしない。
「何故、貴方にそのようなことを言われなくてはならないのでしょうか」
なので、とりあえず冷静に返してみる。
「見ていてむかつくからだ」
わー。
薫は顔にこそ出さなかったが、笑い出したくて仕方がなかった。
眉間に寄った皺も、そのくせ生真面目そうな双眸も、几帳面そうな唇も。
それからこの、オブラートに包もうともしない正直な言葉も。
(この人、変わらないな)
今朝夢で見たままの、薫子が良く知っている、あの〝葵〟だ。
勇魚に厳しく、薫子に厳しく、己に厳しい。
だからこそ、不思議だった。
頭は回るが馬鹿なところがあった勇魚はともかく、この葵があのいすゞに騙されるだろうか、と。
言うなれば、薫子と勇魚を最も近くで見ていた人物だ。
きついことも言われたが、信頼されていた自覚がある。
あの何もかも透かし見る葵が、あのいすゞ程度の小娘に騙されているのは、何故?
「……何故、むかつくのでしょう」
(こんな真似までしちゃうくらい、貴方は私達夫婦を大切にしてくれていたのに)
「勇魚といすゞの間に波風を立てるな」
(そんなこと言っちゃうくらい、私達を愛してくれていたのに?)
「……立ててはいけませんか」
裏切られたとは思わなかった。
今の薫は薫子よりもいすゞに似た貌をしているし、いすゞに至っては薫子の容姿だ。
時を越えて、この葵という男が見守ってきた勇魚と薫子が、この現代で真に寄り添おうとしている。
あの時代には叶わなかった幸せが、今、葵の目の前に広がっている。
「……っ当たり前だ」
いつも物静かな葵からは想像もつかないような、苦渋に満ちた声が漏れた。
「あいつが、あのとき、どれだけの想いで堪えてきたと思っている……!」
声の大きさも気にならないというように、まるで吐き捨てるような言い方だった。
表情を見せたくなかったのか、俯いた拍子に前髪のピンが外れた。長い前髪がさらりと崩れて、完全に葵の顔は見えなくなる。
「これからだというときに、あの馬鹿が死んで……!あいつが、どれだけ辛い思いをしたか……」
ぎゅうと、心臓を掴まれた。
葵が泣いている。
涙を流しているわけではないが、薫子の目には、確かにそう見えた。
そうして薫が見ている前で、葵の拳が白くなるまで強く握られる。
「俺が、代わりに行っていれば……」
――パンッ。
思わず、とはこういうときに使うのだな、と薫は思った。
振りかぶった手が痛い。
流れた髪の隙間から、驚愕に見開かれた葵の目が見えた。
「……あんた、まだそんなこと言ってたんですか」
声が、震える。
葵の血を吐くような今の言葉には、聞き覚えがあった。
薫がまだ薫子のとき、あのとき、勇魚の葬式をあげた、――あのとき。
「……勇魚が死んだのは、あなたのせいじゃない。たらればの話をしたって意味がない!私は何度も言った!勇魚は死んだ!でも、あなたのせいじゃない!!」
勇魚は、己の信念に従った。
やりたいことをやった。行きたい場所に行き、目的を達成して、最も好きな場所で死んだ。
喩えそれがあの人が望んだものでなくても。
遺された人間は、身勝手にもそう考えて折り合いをつけるしかない。
だからって。
「私が可哀相だからと、あの人の死を、貴方が背負わなくていい……!」
あれから、どれだけの時間が過ぎた。
それなのに、あなたは、今もまだずっと、この平成の世に、勇魚の死に、己が最も信頼していた親友の死に、苦しめられてきたの。
「私達はもうあの時代の人間とは違う!勇魚は勇魚でも、葵は葵でも!……私達は死んでいない!生きてる!」
やり直しを与えられた。
あの時、悔やんでも悔やんでも昇華し切れなかった思いを、今この時代で、叶えることができる。
――ああちがう、そうじゃない。
勇魚が、生きているのだ。
「――それだけで、充分でしょう……」
あなたが悔やむ必要なんて、ひとつもない。
(そうだ、それだけで充分だ。勇魚が生きている。それだけで良かったはずなのに)
この学校へ編入してきて。
あの頃より少し若い勇魚を見つけたとき。
その隣に、〝かおるこ〟を見つけたとき。
一瞬、自分が解らなくなった。
あれは、だれ。
あの人の隣にいるのは、だれ。
わたしはだれなの。
そのうち、現代の〝かおるこ〟が見た目がそれなだけで、中身がいすゞだと気付いた。
いすゞがか薫子を騙り、勇魚を恋人にしていることにも気付いた。
けれど。
「……勇魚が、生きていてくれた」
何故忘れていたのか。
それだけが、それだけが一番大切なことだったのに。
(あの人が私ではない女性に微笑むのを見て、嫉妬に目が眩んだ)
勇魚が生きて笑っていられるなら、それでよかったのに。
馬鹿げた策を弄して、下手な言い訳をして、そうして少しでも、薫は勇魚と言葉を交わしたかった。
生きているあの人と、意味はなくとも、些細なものでも、一緒の時間を共有したかった。
海水で朽ちた船の破片を遺骨として、あの人を弔ったあの日を思い出す。
薫子と勇魚の夫婦としての時間は、あまりにも少なすぎた。
『帰ったら、跡取りでも作るか、薫子』
『そうですね。あちらで一度も浮気なさらないで帰ってこれたら、考えてもいいですよ』
『お前、まだ根に持ってんの?あの娘とはデートしただけだって言っただろ』
『当たり前です。私にとっては、喩えデートだけでも、立派な浮気ですから』
『いやあの、あの娘って、五歳の迷子だし。……水あめ食う?』
『それで釣られると思ってるんですか?』
『釣られるだろ?』
『……釣られてあげるのもやぶさかではありませんが、今は忙しいので、あなたが無事に帰ってきてからにします』
『おう、まかせとけ』
ばかばかしいやり取りだ。
でも確かな約束だった。
帰ってきたら、帰ってきたら、帰ってきたら。
「……あなたも私も、いくつになっても馬鹿ですね」
ああなんだか、妙に泣けてくるな。




