友
「どうして黙っていた」
薫は今、尋問もかくや、というような目で葵に睨まれている。
とはいえ、うっすらと葵の目尻も赤くなっているのであまり恐くはない。
も、というのは、薫の目も泣いて泣いて真っ赤に腫れているからである。
先ほどとは違い、薫と葵は隣り合って階段に座り込んでいた。
思いがけずお互いの感傷に引っ張られて興奮してしまったのを冷ますためだ。屋上階段は風通りが悪くとてつもなく暑いが、まあ堪えるしかない。
「言ったところで信じてもらえましたかね」
今の薫の容姿はいすゞに近い。下手な嘘を吐いて勇魚に近付こうとしているのだと思われるに決まっている。
葵とて、薫をいすゞだと思い込んでいたからこそこの屋上階段へと呼び出したのだ。
前世で勇魚と薫の仲を地味に引っ掻き回した女が、まさか今世まで、と随分と忌々しく感じていたらしい。それ故のあの取り乱しようだったのだといわれれば、まあ納得である。
モトカノは大人しく引っ込んでろよ的な話をしたかったらしい。
「信じないな」
葵は素直に頷いた。
つい先ほど、お互い涙を流してあれだけ突っ込んだやり取りをしたからこそ薫が薫子であると証明されたわけである。
「勇魚は気付いていないのか」
「……さあ」
葵に問われて、薫はわざとらしく首を傾げた。
薫にもよく解らない。
勇魚は気付いているのかいないのか。例の駆け引きの最中、会話に織り交ぜてヒントをたくさんばら撒いたつもりだが、勇魚は特に反応を返さない。
今のいすゞを薫子だと信じたいのか、単純にいすゞを好ましく思っているのか。
(でも、〝彼女との思い出話〟は全部、過去の薫子だった)
それはやはり、勇魚はまだ薫子を愛していると思っていいのだろうか。
(……でも、)
その薫子は、薫ではないのではないのだろうか。
「解らなくなっちゃったんですよ。私は薫子とは違うようでいて同じものだと思っていたけど、実際は全然ちがうんじゃないか。薫子の記憶を持つだけで、薫子だとは断言できない。……私は、あなたや勇魚と違って、名前だって違うし、外見だって違う」
そしてそれは、いすゞにもいえることだ。
いすゞが何故薫子に最も近い容姿をしているのか。薫が何故、いすゞに似通った容姿をしているのか。
「……もしかしたら、私こそが薫子になりたがっていたいすゞなのかもしれない」
記憶を捏造して、生まれ変わって、さも自分が薫子だというように思い込んでいるのではないか。
そう考えると不安で不安で堪らなくなる。考えて考えて、眠れない夜だってあった。
「勇魚とお前しか知らない記憶のすり合わせはしたんだろう。だったらお前が薫子で間違いない」
薫が抱える不安を相手にもしない葵は、小さく溜め息を吐いた。
確かに、ふたりでしか知りえない思い出に、認識の違いはなかったのだが、もうちょっと情緒が欲しい。
相変わらず問題解決を急ぐ男である。いや、そのお陰で散々助けられてきたので、文句は言えないが。主に薫子時代に。
「そういえば、私が死んだ後、帆積はどうなった?」
薫子は四十二のとき、風邪をこじらせてそのまま逝った。
今より医療も発達していなかった時代だ。勇魚が還らぬ人となってから、必死に帆積の家を盛り立ててきた無理が祟った。体力を回復する間もなく、あっけなく逝ったのだ。
あまりよく覚えていないが、雪の積もった、椿が美しい朝だった。
そして今生きる薫が産まれたときも、冬の朝だったと母から聞いている。
そんなことを思い出して、薫は思わず笑ってしまった。
薫を一瞥した葵が、垂れた汗を拭う。
「勇魚の従弟の子が継いだ。覚えているか。景山という男だ。頭が切れる」
「……ああ、そんな人もいたね。あなたがあそこで私のお願いを断らずに帆積を継いでくれたら、安心して逝けたんだけど」
「馬鹿いえ。俺には俺の家があった」
「ほとんど帆積に捧げていたくせに。あのあと奥さんと仲直りしたの?」
「家内のことは言うな」
「……ほんと、いくつになっても馬鹿だよねえ」
葵は幼馴染の女と家庭を築いていた。
勇魚が鬼籍に入ってから、葵はそれこそ魂を捧げる勢いで帆積の家を切り盛りしてくれた。それが己の罪滅ぼしだというように、薫子を支え、帆積の家の繁栄に尽力してくれた。その裏で、己の家のことが疎かになっていたのも事実だ。妻よりも薫子と過ごす時間のほうが圧倒的に多かったし、幼い息子と過ごす時間もとても少なかった。それでもそんな葵を黙って見守ってくれるような、本当にできた妻だった。
勇魚の葬儀後、心身ともに疲れ果てていた薫子を励ましてくれたのも、彼女だった。
――どちらともなく、溜め息が漏れる。
沈黙に横たわるのは、この暑い中、グランドでサッカーに興じる生徒達の歓声と、それを掻き消すように生を謳歌している蝉の声だ。
蒸すような暑さに意識が朦朧としてくる。
夏だ。この暑さと蝉の声だけは、昔と変わらない。
(私は、こんなに変わってしまったのに)
「……どうして私達は、前世の記憶なんてものを引きずって産まれて来てしまったんだろう」
なんだか妙な気分になって、薫は壁のシミを見ながら、独り言のように呟いた。
この学校に転入してくる以前なら、きっとこんなこと考えたりしなかった。
自分と同じように記憶を持って生まれてきた勇魚と出会い、いすゞ、葵を間近で見て、最近よく考える。
「この人生は私のもののはずなのに、まるで薫子のやり直しをしているような気分になる」
薫子は薫。薫は薫子。
以前はそれでよかったはずなのに、今は到底そうは思えない。
きっと、勇魚やいすゞ、葵が記憶持ちでなかったら、ひっそりと彼らを見守ったことだろう。
前世の記憶を持つものとして、昔、夫だった人を、ライバルだった人を、友人だった人を。
けれどなんの因果か、皆記憶を持って産まれて来てしまった。
「……俺は、もう受け入れたがな」
薫の独白に、葵は静かな声で答えた。
受け入れた?
「俺もはじめは、どうして昔の記憶なんぞを持って産まれたのか、ずっと考えていた。前世の記憶をもって生まれたところで、勇魚はいても、あいつ《・・・》はいない。……いないのに、頭の中で、昔の葵の情から抜け出せず、あいつを探してばかりいる。この世で勇魚と再び相まみえたのは、幸運なことだったとは思う。昔俺が持っていた罪悪感を思えば、必然でもあるような気すらした。……それでも、それだけで記憶があってよかったとは思えなかった」
葵は愛妻家だった。言葉や態度にはしないが、妻を愛していたからこそ、妻である彼女もまた、それに報いようと葵を影で支え続けてきた。
(私にはこの世でも勇魚がいたけど、葵にはいない……)
それはどれだけ、辛く悲しく、もどかしいことだろうか。
それは、記憶があるからこその苦しみだ。なければ、ただの葵として、この世を純粋に謳歌できたはずなのに。
(まるで私達は、瑕疵を持って産まれてきてしまったかのようだな)
或いは十字架。
背負わなくていいものを、背負わされている。
「……ただ、どれだけ考えても、答えなんて出ない。お前もさっき言っただろう。たらればの話をしていても仕方がない。その通りだ。記憶持ちの俺たちが、記憶がなければ、なんて考えたところで意味はない」
それでもたまに、わかっていても、悩んでしまうものだ。
「俺には勇魚がいたが、お前はずっと一人だったな。……今までよく頑張った」
柔らかく目を細めた葵が、薫の頭を撫でる。
その優しげな顔をなんだか見ていられなくて、薫は顔を伏せた。
そう言ってくれることが嬉しい。
そう言ってくれる人がいることが、嬉しい。
乾いた筈の涙が、もう一度頬を濡らして、音を立てて床に落ちていった。
「それにしても、いすゞはなんのつもりで勇魚に擦り寄ってるんだ?」
「……勇魚に未練たらたらだからじゃないの?」
「あいつ、富豪の男と大恋愛した末に駆け落ちしたんだぞ」
「えっ」
初耳である。




