夏場の坂道
〝すみません、今日の待ち合わせはなしで〟
まだ学校にいるらしい穂積の机にそんなメモを残して、薫は放課後の学校を出た。
陽射しはまだ高い。もうすぐ夏休みに入る。今年の梅雨は驚くほど早く明けた。
曝されただけで眩暈がするような陽射しにくじけそうになりながら、薫は学校から駅まで伸びる坂道を下っていた。
授業が終わってから結構な時間が過ぎているので、薫子以外に人影はない。だからこそ穂積の机にメモなんぞ残してこれたわけだが。
街路樹の影に紛れて、木漏れ日がちらちらと揺れる。
暑い。坂を下りた先でラムネを買うことを決めた。
穂積との待ち合わせを取りやめたのに、特に理由はない。
さっきの今で、穂積の相手をするほどの気力が残ってなかっただけだ。葵という友人に今の自分を見てもらっただけで満足満腹である。今のところは。
それから、考えたいこともある。
――いすゞ。
葵から詳しく聞いたところ、薫子という正統な嫁が現れてからはもうさほど勇魚には興味を持っていなかったらしい。
人になったもんはもう私のもんじゃない、が彼女の口癖のようなもので、そうやって男をとっかえひっかえしてきては後からわざと茶々を入れてからかうような真似をしていたそうだ。とはいっても、薫子が受けた意地悪は、決して〝茶々〟で済ませたいものではなかったが。
『そもそも、勇魚だって本気であれと恋仲だったわけじゃない』
は?なんだそれ。
である。
当時の薫子が聞いてもそう思っただろうし、今の薫が聞いてもそう思う。
要するに、お互いにお遊びというか、恋人ごっこというか、そういったスタンスで付き合っていたらしい。
葵は更に続ける。
『事実、勇魚からはっきり別れを告げたあとは付きまといもしなかっただろう。まあ、たまに遊びに顔を出して、お前に悪さはしていたがな』
それは勇魚に対して、最後まで可愛い女でありたかったからじゃないのか。
勇魚は知らないし、葵はそれくらい自分でどうにかしろと放置していたが、その裏で薫子にどんな仕打ちをあの女がしてきたか。
(男ってほんと馬鹿だな。ごっこ遊びの相手に、あんな執着するわけないじゃん)
始まりはそうだったとしても、少なくともいすゞは勇魚に本気になっていたはずだ。
なにせ自分の夫である。馬鹿だが、余計な花を呼び寄せるような魅力的な男だったのは嫌でも解っている。
そんな相手をぽっと出の嫁に奪われて、想っていた男には己の恋心を軽く見られ、さっくりと振られるなんて――。
もし自分がいすゞの立場だったとしたら、立ち直れないかもしれない。
だからといって、あの意地悪はないとは思うが。
(だんだん腹が立ってきた。……勇魚、いつか誤解が解けたときには、覚えていろ)
自分が言える立場ではないかもしれないが、葵といい勇魚といい、女心を馬鹿にしすぎである。
(とはいえ、いすゞが玉の輿に成功していたとは)
葵も噂でしか聞かなかったようだが、街のほうでは有名な話だったらしい。
中央にある都から港の視察に訪れていた富豪の男が、視察の道中、たまたま寄った茶屋がいすゞのところだったという。つまり、出会いはそこから。そこからあれよあれよという間にふたりは距離を縮め、恋仲になり、男の中央への帰還と共に祝言を挙げ、祝福されてあの土地を去ったという。どんなシンデレラストーリーだ。
どうして教えてくれなかったのかと葵に詰め寄れば、聞かれなかったから、としれっと答えられ、思わず脛を蹴り上げた。
(……あ、そういえば、勇魚と初めてデートしたとき、いすゞの隣に男がいたな……)
随分と仕立てがよさそうな服を着ていたと記憶している。
もしかしなくとも、都からきた富豪の男とはあの男のことだろう。
(じゃあ尚更、謎だ)
この現世で、どうして薫子を騙って穂積の恋人におさまっているのか。
(……恋愛結婚なんて嘘で、本当は勇魚に未練たらたらだった?)
それとも。
(この現世に、〝夫〟がいないから、勇魚を)
そういうことだろうか。
葵の雨に濡れたような声が思い出される。
前世の記憶があるが故に、大切だった人がいないことへ感じる喪失感、その人への情、寂しさ。
それを紛らわせるために、いすゞは穂積と恋人ごっこをしているのだろうか。
「身勝手な女だな」
同情はするが、許せる真似ではない。
そうであった場合、きっと本当のことを知った穂積も傷つくだろう。
「薫!」
思わず立ち止まって考えに耽っていた薫は、唐突に名前を呼ばれてはっと顔を上げた。
勢いよく上げた顎の先に、汗が伝って地面に落ちる。
「陽射しの下で何してんだ。熱射病になるぞ」
え、と振り返る前に、無防備にぶら下げていた学生鞄を横から掬われた。
油断しまくっていたため、教科書の入っている重い鞄はあっさりと薫の手から離れた。同時に、おもてえ!と驚愕する声が聞こえる。
「お前教科書全部持って帰ってんの?ロッカーん中にでも置いておけよ」
見れば、薫子の鞄と自分の薄っぺらい鞄を手に持った穂積が立っていた。
夏に似合う小麦色の肌が眩しい。前世より若いせいか健全なせいか、爽やかさが尋常じゃない。
夏服の白シャツが更にそれを際立たせ、薫子は目を細めた。
いすゞという公認の彼女がいるからおおっぴらにならないだけで、穂積はもてる。裏表のないはっきりとした性格も、男女共に好かれるものだろうし、後輩にはまるで兄のように慕われまくっている。本人は帰宅部の癖に。
「……何のご用でしょうか」
とりあえず聞いてみた。
「帰ろうとしたら、丁度見えたから」
門を潜ってすぐに気がついたらしい。待ち合わせがなくなったということは何か用事があるのかと声を掛けずにいたが、あまりにのろのろのろのろ歩いていくので、我慢できずに追いついてしまった、ということである。
「すみません、昔から歩くのが遅くて」
薫は汗を拭いながら勇魚に並んだ。
薫子は超絶な運動オンチだった。ほぼ着物で過ごしていたので、激しい運動をすること自体少なかったが、連れ立ってどこかに行くたび勇魚に遅い遅いお前は亀にでもなるつもりかと囃し立てられたものである。
思い出すとちょっと腹立たしい。
そもそも何故鞄をとられたんだ?
「用事は?」
穂積がふたつの鞄を抱えたまま薫に問う。
何故鞄が奪われたのか悩んでいた薫は、一瞬ほうけてから得心がいったかのように頷いた。
「え?……ああ。いえ、今日はそういう気分じゃなかったんです」
自分から待ち合わせをさせておいて随分と気分屋な発言だったが、他に言い訳が思いつかなかった。
穂積は特に気にした様子もなく、ふーんと相槌を打った。
「お前、汗掻きすぎてる。茶屋でなんか飲み物買え」
もとよりそのつもりである。




