いやなゆめ
あの人を見送ってから、三年のときが過ぎた。
三年前の秋。
比較的波が穏やかな季節に、薫子の夫である勇魚は新たな貿易地を開拓しに日本を旅立っていった。
本来ならば、主である勇魚は日本の貿易拠点に残り、最も信頼の置ける葵が勇魚の名代で新地へと赴くはずだったのだが、頑としてその役を譲らなかったのはほかでもない勇魚であった。
己が作った船で新しい貿易を始めるというのが勇魚の長年の夢でもあったので、勇魚に甘い薫子と葵は泣く泣く説得を諦め、見送ることになった次第である。
煌く海へ漕ぎ出した勇魚の笑顔は、今でもよく思い出せるほど輝いていた。
異国へは順調に辿り着き、その国での貿易展開もうまくいっていると手紙をもらったのがいつだったか。運よくその国の大商人と知り合えた、とも書いてあった。
そこから一年に二、三度ほど、日本と異国を往復している船を経由して手紙をやりとりした。
そうして最後の手紙に書かれた、〝そろそろ帰る、土産を楽しみに待て〟、の言葉を何度も何度も目で追っては、薫子はにやにやしながらその時を待った。
そうしてその手紙が届いてから三月ほど経った頃。
まだ陽も昇らぬ早朝、葵が薫子の部屋を訪れた。
「……薫子」
戸の向こうから己を呼ぶ声に、のっそりと起き上がる。
この頃には妻殿から薫子へと呼び名も昇格され、勇魚の留守を葵とふたりで切り盛りするようになっていた。
未だに至らないと叱られることはあるが、ある程度は薫子の裁量に任せてくれることも増えてきて、帆積家の女主人として経験を積む日々である。
(こんな時間に珍しい……)
まだ空は薄暗い。
勇魚が旅立ってから広々と使えるようになった特注の夫婦布団から、緩慢な動きで立ち上がる。
「……薫子」
まるで今にも倒れそうなほど蒼白な顔で、葵は薫子を出迎えた。
寝間着のまま廊下へ出たることを普段ならだらしがないと咎めるのに。珍しい。
いつもなら見ないでくれと土下座したくなるほど真っ直ぐ見てくるはずの双眸も、今は伏せられている。
「葵さん?どうしました、何か問題でも」
そこまで言って薫子ははっとする。
もしや昨日懇意のお客様をもてなした際に何か不手際でもあっただろうか。
(まずい、あそこの婦人は完璧主義者で、少しでもへまをしたら商談はなかったことになると、葵さんに再三脅されていたのに)
「もしかして昨日のお客様……」
「船が転覆した」
え?
薫子の言葉に被せるように、或いは薫子の言葉に紛らさせようとでもいうような声のか細さで、葵は口を開いた。
「……今、なんて」
だというのに、薫子にははっきりと聞こえた。
――転覆。多くの船と船員達を抱えるこの帆積家に嫁いでから、一番嫌いで恐い言葉になった。
「勇魚が乗った船が嵐で転覆した。辛うじて助かった船員が二名。樽に乗り上げて海面を漂っていたところを通りがかった船に救助されたそうだ。その時点で転覆して三日経っている。今日で転覆してから十日ほど……勇魚は見つかっていない」
まるでさっさと話を終わらそうとするかのように、常にはない性急さで葵から言葉が放たれる。
早口だ、もっとゆっくり話してください、と言おうとして、それが口に上る前に葵の言葉を理解する。
――いさなが、みつかっていない。
がらり。
己の足元が崩れるはずもないのに。
薫子は確かに、その音を聞いた気がした。
「……いやなゆめをみたな」
今日、薫は遅刻した。
寝坊したわけではなかった。朝起きたら、まだ夜明け前で、だからこそ一瞬、どちらが現実なのか解らなくなって、混乱して、びーびー泣いた。
まるでたった今、勇魚の死を告げられたような錯覚に陥ったのだ。
恐ろしいほどよく跳ねる心臓を抑え付けながら、しゃくりあげて泣き続けて、気付いたらかなりの時間そうしていたらしい。
母親に怒鳴られてやっと正気に戻ると、いつもならとっくの昔に家を出ている時間だった。
泣き過ぎて腫れた目をした薫を見た母親は、なにをどう勘違いしたのか、男なんていくらでもいるわよ、今日は休みなさい、と勧めてきた。
正直その言葉に甘えたかったが、あの夢のあとでは部屋で一人でいるのも気が滅入る気がして、遅刻ではあるが登校することにした。
何より今日も、穂積との約束がある。
「ひっでえ顔だな」
一限目の終わりごろ登校してきた薫は注目を浴びたが、その不細工に腫れた顔のお陰で、特に突っ込まれることはなかった。
上記の、穂積以外ではあるが。
「……昨夜遅く、お母さんと一緒に泣ける映画観ちゃいまして」
当然嘘だ。いつもより人が少ない電車の中で必死に捻り出した。
「ふーん」
穂積は高い位置から薫を見下ろすと、何か言いたげな視線を向けてくる。
「なにか」
「別に」
素っ気無く答えると、穂積はさっさといすゞや友人のところへと戻っていってしまった。
その背中を、ついつい目で追ってしまう。
今は夏。薄手の学生服のシャツの下に、肌が透けている。見苦しく見えないのは、鍛えられた体と焼けた肌のお陰だろうか。
(……こっちの勇魚は、生きている)
思わず、ほうと息を吐いた。
そして同時に、穂積の隣に立ついすゞとも目が合う。
(あ)
それはすぐに逸らされたが、まるで恐ろしいものでも見たかのように、瞳を揺らめかせていた。
(……ああそうか。私と穂積が話しているところを彼女が見たのは、今のが初めてか)
いつもは彼女に見られないように会っているのだから当然だ。
だからだろう。いつの間に言葉を交わす仲になったのかとか、いつ、どうして、とか。そう言った不安が浮かぶ眼だった。
その、傷ついたような、顔が。
今日はなんだかとても、胸に響いた。
(……私、酷いことしてるなあ)
前世の記憶をだらだら引きずって、それに縋りつくようにして好きあっている恋人たちにちょっかいをかけている。
勇魚はもう、自分のものじゃないと解っているのに。
いすゞが薫子を騙って勇魚を自分のものにしているから、とか、そんなの言い訳にすらないような気がしてきた。
(だめだ、なんだか弱気だな)
あんな夢を見たせいだろうか。
あの時は、ただ生きていてくれたら、それだけで良かったのに。
「……ん?」
ふと視線を感じて、後ろを振り返る。
そこには、クラスは違うが毎回休み時間になるとこのクラスに遊びに来ている〝葵〟がいた。
目的は勿論、穂積である。
二人はこの現代でも幼馴染らしく、見目がいいのでよく女生徒たちの噂になっていた。
穂積、いすゞ、葵……彼らが交わす会話で、薫は確信したのだ。
〝彼ら〟は薫が知っている、〝彼ら〟で間違いない、と。
どうやらこの葵も、前世の記憶持ちでこの現世に生まれ変わってしまった人間らしかった。
そして穂積同様、彼もまた現代のいすゞが薫子であると疑っていないようだった。
まあ、今のいすゞは見た目まんま薫子なので、名前が違っていようが信じてしまうのは仕方がない。
その葵が、前世と変わらぬ鋭い視線で、じっと薫を注視している。正直恐い。
この時代では接点がないのに、なにか用だろうか。穂積を訪ねる葵を、薫がたまにこっそりと観察するくらいだったのだが、それがばれていたとでもいうのか。
「……話があるんだが」
わたしにはない、と断れないだろうか。




