第6話 旭川から洞爺湖 助手席のバター飴(北海道編⑥)
北海道編⑥ <パッチワークと夕焼け>
野口に見送られ、リーザ・チャチャは旭川を出発。庭先で両手を振る野口の姿が、サイドミラーの中でみるみるうちに小さくなっていく。
「いやあ、野口の母ちゃんもいい人だったな」
後部座席からシバが言った。
「そうだな……。さて、ここから一気に南下して、美瑛を回って、その後は札幌を目指すぞ」
「おう。地図を見る限り、最初は237号線で、その後、芦別美瑛線を伝って山を越えるルートだな」
シバが分厚い道路地図をひざの上で広げ、ページをパラパラとめくる。
美瑛の周辺に広がる、美しい丘陵地帯へ。車窓に広がるパッチワークのような畑の景色に、声を上げる。
「おい、見ろよ……すげえな、これ」
緑の麦畑、黄色い花畑、きれいに区切られた作物のうねりが、なだらかな丘の起伏に沿って幾重もの模様を描いている。絵葉書を切り取ったような、鮮やかな風景だった。
リーザ・チャチャは軽やかなエンジン音を響かせて緩やかな坂道を登っていく。観光客の姿はまだまばらで、朝の空気が心地よかった。
さらに進むと、ポツンと立つ一際見事な木々のシルエットが見えてきた。「マイルドセブンの丘」として知られる場所だ。
「おい、ちょっとあそこの木、たぶんあれがマイルドセブンのだ」
「写真撮って、山下に見せてやろう」
「あいつは同級生で、唯一の喫煙者だからな」
車を降りずとも、窓を開けるだけで、爽やかな草の匂いが車内を満たす。
観光地を後にして西進。道道に入る。予想以上に険しい峠道、リーザ・チャチャのエンジンがうなりを上げ、車内が大きく揺れる中、シバが地図を見ながら冷や汗をかいている。
「おい、ここ本当に合っているのか……?」
アスファルトが突如として途切れ、ガタガタと激しく揺れる。
「大丈夫。地図によればこの芦別美瑛線を抜ければ38号に出られるはずだ。……思っていた以上に山道だな!」
シバは、額に滲んだ汗を手の甲で拭った。
エンジンが苦しげな唸りを上げ、ボンネットから『きゅるるるるるる……』と鳴る。
「おい、またベルトが鳴っているぞ!大丈夫なのかよ、相棒は!」
「踏ん張ってくれよ、チャチャ……!」
ガタガタとした未舗装の峠道をようやく抜け出し、舗装された滑らかな道路に出たとき、俺たちは心の底から安堵した。車をさらに西へと走らせると、景色は一気に都会へと変わっていく。ビルが並び、車が押し寄せる札幌市街だ。
まず向かったのは、なだらかな丘の上の羊ヶ丘展望台だ。車を降りて歩いていくと、あの有名な人物像が凛と立っていた。
「お、あれがクラーク像か……!」
「『少年よ、大志を抱け』ってやつだな。生で見ると、なんかこう、背筋が伸びる思いがするわ」
シバと二人でブロンズ像を見上げ、記念に写真を撮る。牧歌的で開けた空間だ。おみやげ屋で、バター飴を買った。
「なあ、シバ」
「んだよ」
「どうして、木彫りの熊なんだ?」
「おばさんのお土産。定番だから」
「定番過ぎるだろ。そのおばさんの家にも、きっともうあるぞ」
「大丈夫、大丈夫。『少年よ、大志を抱け』のシールも買ったから」
次に向かったのは、ビル街のなかにひっそりと佇む札幌市時計台だった。
「おお、これがテレビとかでよく見る時計台か。意外と街中にあるんだな」
赤い屋根の建造物の前で、観光客がカメラを向けている。観光客の集団が居なかったら、絶対に気づかなかったと思えた。
俺たちもその喧騒のなかで時計台を見上げ、近くの店で手早く札幌ラーメンをすすって腹を満たした。
札幌のビル街をあとにしたリーザ・チャチャは、西へ向かう5号線で、何度も赤信号に引っ掛かりながら、やがて小樽へとたどり着いた。車を停めて一歩外に出ると、潮の香りと、どこか明治からの歴史を感じる空気に包み込まれた。
「すげえな、札幌とはまた全然雰囲気が違うな」
シバが感嘆の声を漏らす。運河沿いに立ち並ぶ倉庫群。黒い石造りの壁や、蔦の絡まるレンガの建物が、歴史を静かに物語っている。運河の水面に夕暮れ前の淡い光が反射し、どこか切なさを誘う。
「こういう街並みって、なんかこう、タイムスリップしたような気分になるな」
レトロな小樽の街を後にし、リーザ・チャチャは5号線をさらに西へと進んだ。
「さて、そろそろ今夜の野宿の場所を探さねばな」
運転席でハンドルを握りながら、俺はシバに声をかけた。
「そうだな。地図によればこの先、いくつかキャンプ場があるはずだ。そこでテントを張って一休みしようぜ」
シバは分厚い道路地図をめくり、目星をつけていたキャンプ場のページを指さした。
しかし、太陽が西の空へと傾き、周囲の木々の影が長く伸び始めるにつれて、俺たちの余裕は焦りへと変わっていった。
最初に目指したキャンプ場へ到着すると、管理棟の窓には「本日の受付は終了しました」の冷たい貼り紙。
慌てて次の場所へと車を走らせたが、今度は「有料、事前予約」という看板が立ちふさがっていた。
「おい……これ、マジでやばくねえか?」
シバの声に焦りの色が混じる。
西の空に傾いた太陽が、羊蹄山の山肌を真っ赤に染め上げていく。夕焼けの絶景に、俺もシバも言葉を失い、路肩に車を停める。
「……おい、見てみろよ」
山肌が、沈みゆく太陽の光を浴びて、燃えるような茜色から深い紅蓮へと刻々と色を変えていく。北海道の大自然の美しさだった。
「すげえ……」
「なあ……俺たち、遠くまで来たんだな」
シバがぽつりと言った。
やがて太陽が完全に沈み、空が群青色へと変わっていく。感傷に浸る時間は終わり、野宿のあてがないという恐怖が、俺たちを襲い始めた。
「……もう、ここしかなさそうだな」
シバが、地図のある場所を指す。
「ああ、そこなら」
俺たちは湖畔にリーザ・チャチャを滑り込ませ、エンジンを落とした。外の湖面から、チャプン、と水音が響いた。そう、ここは、ヒッチハイクの彼女と来た洞爺湖畔のキャンプ場だ。
助手席から、昼間買ったおみやげの、バター飴の匂いがした。
暗闇に包まれた洞爺湖畔のわずかな草地に、俺たちは小さなテントを設営した。ペグを打ち込むハンマーの音が、夜の湖面に響く。
テントのなかにランタンを灯し、途中のスーパーで買い込んだ幕の内弁当を広げた。箸を割り、惣菜を口に運ぶ。弁当を平らげても、物足りなさが残っていた。
「おい、まだなんか食い足りなくねえか?」
俺が呟きながらリュックを探ると、底からカップ麺の容器が転がり出た。
「お湯沸かして、これも食おうぜ」
しかし、シバは、横を向いて首を振った。
「いや、俺はもういいわ……。なんだか胸がいっぱいでさ、そんなに入んねえよ」
「そうか?じゃあ俺一人で食うわ」
ガスバーナーに火をつけ、お湯を沸かす
「……なぁ、シバ?」
返事がない。横を見ると、シバは、ガサリとテントのジッパーを大きく開けて外に出ていってしまった。
「おい、どこ行くんだよ……」
呼び止める間もなく、テントの布地がパタンと閉められた。
一人取り残されたテントのなか、湯気を上げるカップ麺を前にして、俺は生唾を飲み込んだ。外からは、シバが車のドアを開け、エンジンをかける音が微かに聞こえてくる。
麺を箸で手繰り寄せ、口に運ぶ。ふと、数日前に別れた室蘭の彼女の顔が脳裏に浮かんだ。別れ際、もし引き留めていれば、あるいは彼女を旅の連れとして誘っていたなら――。
「……あのあと、ずっと一緒だったら、もっともっと楽しかったかもしれないな」
誰もいないテントのなかで、ぽつりと声に出して呟いた。
・・・・・・・・
……ずっと一緒でございましたのに。
私の名は、お理佐。美瑛の丘でも、小樽の運河の脇でも、隣に座っていましたのに、この男は、気づかない。
この男たちは、明日、本土へ帰るのですね。私の生まれは盛岡、一度も帰ることができなかった。有名な松島だって、この目で見たことはございません。もしや、このままこの男に憑いていったら……
もしかすっと、憧れていた松島さも、連れてってくれかんな?
行くわ。あなたが私を置いていかない限り、ずっと、どこさでも。
(続く)




