屈斜路湖から網走 助手席の香り(その3) (北海道編⑧)
第8章 -笹原、そして星空-
北海道で迎える4回目の朝。
白み始めた屈斜路湖畔の空は、鉛色の雲に覆われていた。昨夜の穏やかな地熱の温もりも薄れ、夜明けとともに湖面から吹きつける冷たい突風が、砂浜を容赦なく叩きつけていた。
「バサバサバサッ!」
けたたましい羽音のような布の擦れる音が、車内で微睡んでいた俺の意識を強制的に引き剥がした。
窓ガラスの向こう、石や流木で固定したテントが、強烈な横風を受けて無残に骨組みをひしゃげさせている。
めきめきと音を立ててフレームが折れ、次の瞬間、リーザ・チャチャの牽引フックに繋いだロープを除き、すべてのアンカーが吹き飛んだ。砂地では、即席のアンカーを打っても、容赦ない湖風の突風には耐え切れなかったらしい。
テントの幕体は、強烈な風の渦に巻き込まれるようにして、その中でシバごと激しく転がされ、めちゃくちゃにもみくちゃにされている。
「うわっ……! おい、まて、オイ!」
くしゃくしゃに潰れたテントの布地の中で、シバの悶絶する声がくぐもったトーンで響く。まるで洗濯機に放り込まれた人形のように、テントの塊が砂浜の上をゴロゴロと転がっていく。
たまらずファスナーをこじ開け、シバは半泣きになりながら、泥まみれの這いつくばる体勢でその布の束からずり這い出てきた。
髪をボサボサに逆立て、寒さと焦りで顔を青ざめた彼は絶叫する。
「 殺す気か! テントの中で丸ごとローリングコースターだぞ!」
シバは冷気と砂嵐をそのまま車内に引き込む勢いで、滑り込むように後部座席へ飛び込んできた。
ガタガタと歯を鳴らしながら、シバは凍りついた手でドアをバタンと閉める。
「な、なんだあの風は……! 砂浜の風を舐めてたわ。ペグごと全部持ってかれて、中で転がされまくったぞ!」
「……お疲れ」
愛車リーザ・チャチャの車体が、外から吹きつける突風に耐えるように、ガタガタと大きく揺れる。
強風のなか、テントと、テントの中にあった荷物を回収し、俺たちは再びリーザ・チャチャのエンジンをかけた。 今日の目的地は、標津町側から知床半島を横断し、オホーツク海沿いに西へ進んで「網走」へと抜けるルートだ。日本列島の北東端から知床の険しい山岳地帯を縫うように走る、今回のドライブ旅行でも最大のハイライト区間だった。
中標津から北東へ進み、根室海峡に面した標津町の市街地を抜けると、いよいよ目の前には巨大な知床半島の山々がそびえ立ちはじめる。 「おい、見てみろよあの空! 標津から見上げる知床連山、すっげえ迫力だな」 助手席の背もたれから身を乗り出したシバが、パノラマのように広がる青空と、その向こうにうっすらと輪郭を現す羅臼岳の峰々を指さした。 「すげえ……本州の山とはスケールが全然違うな」
知床に近づくにつれ、人の気配は薄れ、自然が牙を剥くような険しい風景へと変わっていった。海から吹き上げる風は冷たく、切り立った断崖と鬱蒼とした原生林が、行く手を阻むように迫ってくる。
知床の根室海峡側、羅臼の町を背にして、俺たちはリーザ・チャチャを走らせた。 険しい知床横断道路を、知床峠へ向かってぐんぐんと標高を上げていく。
知床峠を超えた後、やがて現れた小さな分岐を、俺たちは迷わず右へと曲がった。
進むにつれて道幅はさらに狭くなり、人の気配は完全に消え去り、自然が牙を剥くような険しい風景へと変わっていった。やがて俺たちは、知床の原生林の入り口にある駐車場に車を停めた。
空は快晴。木々の間からは、少し暑いくらいの夏の日射しと、もわっとした湿った空気が漂ってくる。
(――当時の気温は、二十五℃。本州の感覚で少し暑いくらいだが、現地の人々にとっては、夏真っ盛りでうだるほど暑がっていた)
「……なぁ、せっかくだし、もう少し先まで歩こうぜ」
シバが、凝り固まった体をほぐしながら遊歩道の奥を指差した。外の冷たい空気を吸いたかった俺は、「そうだな」と同意して歩き出した。
だが、遊歩道の入り口に差し掛かった途端、俺たちの足はピタリと止まった。
目の前に、色褪せた、しかしやけに生々しい警告文が書かれた看板が立っていたのだ。
『ヒグマ出没注意。この先、クマの生息域です。引き返す勇気を持ってください』
爪で引っ掻かれたような傷跡が残るその看板を見て、背筋に冷たい汗が伝う。本州の山で見る「クマ注意」とは次元が違う。ここは正真正銘、彼らの領域なのだ。
「……引き返す勇気、か」
シバが引きつった笑いを浮かべる。
「そんな簡単に引き返せるかよ。俺たちには進む勇気がある」
軽口を叩きながらも、二人の足取りは明らかに慎重になった。
鬱蒼とした木々に囲まれた一本道を進む。足元の落ち葉を踏む音だけが、やけに大きく響く。周囲は不気味なほど静まり返っていた。
ふと、森の奥深くから、奇妙な音が聞こえた。
――ピィィィィッ。
甲高く、どこか悲鳴のようにも聞こえる鳴き声。
「おい、今の……」
「エゾシカの鳴き声だろ。ビビんなよ」
シバはそう言ったが、その声は微かに震えていた。
――ピィィィッ。ガサッ、ガサガサッ。
再び鳴き声が響き、何かが藪をかき分ける音が続いた。それも、一つや二つではない。複数の足音が、森の奥からこちらへ向かって移動しているような気配がする。
エゾシカか、それとも別の何かか。
木々の隙間に目を凝らすと、笹の陰で「何か」が動いた気がした。
獣の臭いと、なぜかあの「花の匂い」が、微かに鼻腔を掠めた。
「……おい、シバ。そろそろ戻ろう。戻る勇気だ」
「ああ、言われなくても……速足の勇気!」
「あっ、追い越す勇気」
「振り返らない勇気」
「友を見捨てる勇気」
「何でも、勇気って付けるな!」
「あっちの藪でバキバキって音がするから、死の勇気!」
「バキバキって?それって、まさか?」
俺たちは顔を見合わせ、車のある駐車場へ向かって無我夢中で駆け出した。背後で鳴り響く枝が折れる音と、あの甘い匂いから逃れるために。
俺たちのリーザ・チャチャは西へと針路を取った。険しい断崖と荒々しい根室海峡の景色から、オホーツクブルーのどこまでも続く水平線へと車窓の景色が変わりゆく中、ひたすらアクセルを踏み続ける。
やがて、オホーツク海と濤沸湖に挟まれた、一面の花畑が広がる場所へ差し掛かった。 小清水原生花園――。
観光客でにぎわうレストハウスの駐車場にリーザ・チャチャを滑り込ませ、俺たちはようやく車のシートにもたれかかった。大きなガラス窓の向こうには、明るい陽射しを浴びたオホーツクの海が広がっている。
レストハウスの入り口を見上げた。木の香りが漂う綺麗な店内からは、香ばしい醤油と出汁の匂いがガラス戸越しに漂ってきている。
「……温かいホタテラーメンでも食おうや」
どこまでも続く海岸道路、見渡す限りの牧草地、本州とはスケールの違う大自然が容赦なく体力を削っていくが、後部座席のシバが時折叩き出す「タイムスケジュール」に沿って、俺たちは走り続けた。
そして、たどり着いたのは網走刑務所だった。
現在の刑務所にビビりながら傍を通り、博物館の網走刑務所は、閉館時間まであと1時間だった。
網走刑務所の展示の余韻を残したまま、今日の宿泊地、網走湖オートキャンプ場に着いた。
シバが後部座席の荷物の山から這い出すようにして伸びをした。今夜はしっかりとテントを張る。
網走市内のスーパーで買った食材と鍋を出す。
俺たちは持参したクッカーでお湯を沸かし、買って来た海鮮の、素朴ながらも温かい鍋を口に運んだ。テントの隙間から見上げる夜空には、街では絶対に拝めないほどの満天の星が広がっていた。
テントはそのままにして、俺たちは、車中泊の準備を始めた。洞爺湖と屈斜路湖の反省から、テントでは寝ない。大きな荷物はテントに置いて、車内は広々と使う。
シバは運転席のシートを倒して寝ていた。
「なんで運転席側で寝るんだ?」と聞くと、シバはごまかすように笑う。
「いや、お前は運転で疲れているだろうから、広い助手席をお前に使って欲しいんだよ。ハンドルがあると寝にくいだろ。」
だが、その横顔はどこか怯えているように見えた——。
「確かに、なんだか最近妙にだるい、体力が削られる」
弾丸ツアーはもうやめようと心に誓った。
俺は助手席のシートを倒して横になる。不思議とシートが仄かに冷たい。心地よさに包まれながら、俺たちは深い眠りへと落ちていった。
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私の名は、お里佐。
この男たちは、なんとも気が急ぐことだ。
道路がきれいだからいいようなものの、私の時代なら海に落っこちておるわね。
――ところで、霧の中も、笹の中も、わたしでは無いからね!
▴▴▴
(続く)




