第5話 網走から旭川 助手席のジンギスカン (北海道編⑤)
北海道編⑤ <水平線と牛とジンギスカン>
私の名は、お理佐。この男どもは、警戒心が薄いんだから。昨夜も、車中でぐっすり眠ってしまってさ。
夜中に波の音が......波の音が、ものすごく大きく鳴って、足もとまで波が来ているようで心配だったさ。
彼らは全く起きないから、私は一睡もせずにお守りしてあげたのに、翌朝、凪いだ湖を見て、「穏やかな湖でぐっすり寝れた」って、何を言ってるのやら。
・・・・・
リーザ・チャチャに、テントを積み、西へ針路を進める。
網走を離れ、まず現れたのは能取湖の水面。朝の光を浴びた水面が静かに広がっていた。さらに進むと、一転して風が吹きつけるオホーツク海、潮風にハンドルを取られながらも快調に進む。
やがて、風が止み、広大なサロマ湖が見えた。
「なあ……」
後部座席から分厚い地図を手に持って、シバが聞いてきた。
「琵琶湖ってよ、このサロマ湖よりデカいのか?」
「大きさで言えば琵琶湖の方がデカいな。日本一だからな」
ハンドルを握ったまま答えると、シバは「へえ……」と窓の外の水面へ目をやった。
「お前、滋賀の出身だもんな。湖を見慣れてるから、こういう景色も動じねえわけだ」
「そんなことないじょ…琵琶湖にも水平線はあるが、その先の山脈が見えるから水平線という感じがしなくて、対岸のように見えるから広さが感じないんだな。沖に出ると遠くてびっくりするんだけど」
「泳いだことあるのか?」
「海水浴するよ」
「え?海水浴?湖なのに海水浴?」
「なら、なんて呼ぶ?」
「う、なんていうのか、わかりません」
「そういえば、シバも三河じゃねえか。そっちも湖あるだろ」
「浜名湖は三河ではない!三河は湾」
「でも、浜名湖にはいったことあるだろ、どんな感じよ」
「あー…海岸が違うな。家や田んぼが近くまであって、雰囲気が違うな。それに浜名湖も対岸が良く見えるからな」
サロマ湖の水面は鏡のように穏やかで、どこが水ぎわでどこが空なのかも曖昧で、向こう岸はわずかに線のようにしか見えなかった。
対岸が見えないサロマ湖を超え、ハンドルを左にきった。
「なあ、シバ」
「んだよ」
「宗谷岬を止めにして、旭川に向かう」
「そうだろうと思った。左に曲がったからな」
「え、良いのか?」
「ああ、良いさ。早めに野口っちに行って、ジンギスカンをごちそうになろう」
「シバは、いいやつだな」
「なんで?」
「そこで理由を聞かないで」
宗谷岬へは取りやめにした。昨日までの弾丸ツアーを止め、今日は、まっすぐ旭川に向かう。
内陸に入ると、景色が一変した。一面の牛。
「おい、見ろよ……!」
シバが後部座席から身を乗り出して言ってくる。
「牛だ、牛! すげえ、そこら中にいるぞ!」
「お前、そんなに興奮すんなよ」
「あっちもこっちもホルスタインだぞ!牧場がでっかいな!」
端から端まで、どこまでも続く牧草地に、草を食む牛の群れ。圧倒的な牛の数。
リーザ・チャチャを路肩に停める。
「にしても、すげえ数だ……おい、今の見たか? こっち見て首振ったぞ!」
『ぷ......』
軽いクラクションの音が響いた。
一斉に、牛がこちらを向いた。
「やめろ!一斉にこっち見たぞ!」
「もう一回押してみようか?」
「やめろ、後生だからやめろ。振りじゃないぞ、やめろよ」
『きゅるるるるるる』
突如にベルト鳴りが響き渡った。牛が動き始める。
「うわっ、なんだ今の音! 牛が驚いたぞ!」
「おいシバ、こっち来るぞ……!」
「ふざけんな、お前がクラクションを鳴らそうとするからだ!」
「鳴らしてねえよ! 勝手にベルトが鳴ったんだ!」
合図にしたように、一斉に巨体を揺らしながらザワザワと動き始めた。数百頭の牛が、一頭、また一頭と首をこちらに向けたまま、じりじり歩幅を合わせるように近づいてくる。
俺たちは、慌てて車道に戻り、アクセルを吹かして、その場を離れた。
「おい、……この先は、ずっと山道だから、慎重に安全運転な」
後部座席で地図を見ていたシバが、声をかけてくる。
アクセルを踏み込んでも、坂道の重さに耐えかねてスピードが下がる。
道路の左右には、深いエゾマツやトドマツが壁のようにそびえ立っている。太陽の光を遮る深い山林の中を走っていると、孤独感が車内を包み込んだ。
「こんな何もない、深い森の中に、よくもまあアスファルトを通したものだ」
しかし、深い森を抜けた瞬間、視界がぱっと明るく開ける。
現れたのは、再び牧草地だった。どこまでも続く、眩しいほど緑豊かな牧草地だった。鬱蒼とした山林のすぐ隣に、青空の下で穏やかに草を食むホルスタインの群れが突如として現れる。その全く異なる風景が、まるでパッチワークのように交互に繰り返されていく。
「おい、また牧場だぞ……さっきまで真っ暗な森だったのに、急に開けたな」
シバが助手席の窓を少し下げて、外の空気を吸い込む。
牧草地からこちらを見つめる無数の黒い目が、冷ややかに、あるいは物珍しそうに小さなリーザ・チャチャを見送っていた。
石狩川沿いの道を下っていくと、やがて前方の視界が開け、北海道の内陸部を代表する街が近づいてくる。旭川の街並みが見えて来た。
ビルや家々の屋根が広がり、生活の匂いに、俺たちは肩の力が抜けた。
「こうして無事に旭川まで着いたけどさ、出発のとき、野口を乗せられなくて、今さらながらどんな顔して会っていいのか分からないな」
「そりゃ、車内がシュラフとテントでパンク状態だったんだから仕方ないだろ。『向こうで合流な!』って言ったとき、野口は笑っていたから大丈夫だって」
「キャンプ道具を詰め込みすぎた俺たちの自業自得だけどよ。現地集合で迎えてくれるかな?」
「大丈夫、大丈夫」
旭川の碁盤の目の「条・丁目」の住所を頼りに、野口の実家へとたどり着いた。
サイロのある家を想像していたが、普通の家だった。
庭先にリーザ・チャチャを滑り込ませると、家から飛び出してきた野口が、呆れたような、しかし嬉しそうな顔で俺たちを出迎えた。
「お前ら、本当によくここまでたどり着いたな!」
「おう、数千キロ走ってきたぞ!」
「で、野口っち、約束のジンギスカンは用意してあるんだろうな?」
庭先に簡易的なコンロが用意され、待ちに待ったジンギスカンの宴が始まった。北の大地の、友人の実家の庭先で食べるラム肉は、これ以上ないほど美味かった。笑い声が夜空に響いた。 その賑やかな輪の少し外側、ふわりと懐かしい花の匂いが漂ってきた気がした。
「ごはん食べながらで良いから、お風呂、順番に入ってね! 兄弟が多いから、タオルはそこにあるやつ適当に使って!」
野口の母親が次から次へと皿に肉を放り込んでくる。夕飯をいただいた上に、お風呂もいただけたのはうれしかった。
でも、兄妹が多いということで、泊めてはもらえず、庭先で車中泊。
テント道具や大きな荷物は、玄関ポーチに置く。助手席を開けると、ジンギスカンが、ちょこんと置かれていた。
「おいシバ、これ……野口のお母さんが置いてくれたのか?」
「は?聞いてないよ。つーか、俺たちさっき腹いっぱい食っただろ」
疑問に思ったが、夜食にくださったのかと思って、後部座席の隅に置いた。
・・・・・
静まり返った野口家の中。
「お前ねえ、あの人たちにちゃんとご飯を食べさせたかい? 特に、あの助手席に乗ってた女の子……ずいぶんおとなしい人だったけれど、ずっと車の中にいて、気の毒だったよ」
野口は母の言葉に、キョトンと首を傾げた。
「は? 母さん、あいつら二人で来たんだから、助手席になんて誰も……」
「なに言ってるの、お前。お嬢さんが座ってたじゃないか。冷たくされちゃ可哀想だから、お肉を届けてあげたんだよ」
(続く)




