第4話 釧路から網走 助手席のぬくもり (北海道編④)
北海道編④ <霧と崖と笹原、そして星空>
白み始めた空の向こうから、朝霧が音もなくドライブインを包み込んでいく。
濡れたアスファルトと泥炭の湿ったような匂いが漂う。
「おい、起きろ。朝だぞ」
運転席の背もたれをもたげたシバが、ガサゴソとシュラフから這い出て伸びをする。俺も助手席のシートを起こしながら、凝り固まった首を鳴らした。
「寒っ……おい、真っ白じゃねえか」
窓の外を見ると、視界の先は一面の乳白色。昨日諦めた釧路湿原へと続くはずの道路も、輪郭が完全に霧のなかに溶けてしまっている。夏だというのに、吐く息が白く白濁するほどの冷え込みだ。
「まあ、せっかくここまで来たんだ。霧の釧路湿原ってのも、逆にオツだろ」
「オツって……何も見えん!」
ぼやきつつも、俺たちはガスバーナーで湯を沸かし、インスタントコーヒーをすする。カロリーブロックを頬張り、冷え切った胃の腑に熱い液体を流し込む。
「で、どうする?行くのか?」
「行くしかないだろ。リベンジだ、リベンジ」
エンジンをかけると、リーザ・チャチャの小さな車体がブルッと身震いする。俺たちはヘッドライトを点灯させ、濃霧の中へ車を走らせた。
釧路湿原へと続く道路は、周囲のすべてを飲み込む深い霧に覆われていた。木々のシルエットがまるで幽霊のように両脇に浮かび上がり、対向車はもちろん、歩行者の気配なんて微塵もない。
釧路湿原の展望台の駐車場へたどり着いた。観光客の姿はもちろん、管理人すらまだいない。しんとした静寂の中、エンジンの音が響く。遠くから野鳥の鳴き声が聞こえた。
展望台へ続く遊歩道の入り口前で、リーザが『キュルキュル』と鳴いた。
シバは、慌ててエンジンを切る。俺たちはドアを開け、ひんやりとした朝の空気に身をさらした。
「すげえ……何も見えねえ」
「はは、見事に真っ白だな」
柵の縁に手をかけ、霧の向こうの景色を想像しながら、
「ヤッホー」
その時だった。
――カツ、カツ、と。
遊歩道を歩く、乾いた靴音が背後から響いてきた。
俺とシバは、ピクリと肩を揺らして同時に振り返る。
こんな朝早く、こんな霧の深い場所に、俺たち以外の人間がいるはずがない。
人影は、俺たちの数メートル手前でぴたりと足を止める。
霧の向こうから覗くその顔は、はっきりと見えない。
「……あ」
声にならない声が、喉の奥から漏れる。
シバがゴクリと唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。
人影は、右に折れて、霧の中に消えていった。
張り詰めていた空気が、一気に緩む。しかし、それに伴って全身の毛穴から冷や汗が噴き出した。消えた遊歩道の曲がり角を、俺たちは動けずに見つめる。足音はもうしない。聞こえるのは、湿原を渡る風の音と、自分たちの荒い息づかいだけだ。
「……今……」
シバがかすれた声で、こわごわと口を開いた。
「見たよな……?」
「ああ……」
逃げるように車に戻り、釧路湿原を後にした俺たちはそのまま東へと針路を取った。
目指すは、本土最東端の地――根室だ。
どこまでも続くフラットな海岸線を、リーザ・チャチャは車体を小刻みに揺らしながらひた走る。霧が晴れ、視界の左側にはどこまでも広がる原生林と牧草地、右側には荒々しい太平洋の水平線がただただ平行に寄り添ってくる。
「なぁ、シバ」
「んだよ」
「俺たち、今どこを走ってる?」
「さあ……たぶん、根室の手前あたりだろ。岬の先端まで行くか?」
本土最東端の潮の匂い。
日本の一番端っこにやってきたという独特の高揚感が、車内の狭い空間を支配していた。リーザ・チャチャの小さなエンジン音だけが、まるで息を継ぐように単調に響き渡る。
「……なんか、すごいところまで来ちまったな」
シバが後部座席のシュラフの隙間からぽつりと言った。その声は、なぜか普段よりもずっと小さかった。
俺たちは言葉少なく、広大な原野と、荒々しい海岸線を意識しながら、ハンドルを握りしめ、根室をかすめて北へ――知床半島へと針路を取り直したのだった。
根室海峡沿いの国道をひた走る。知床半島に近づくにつれ、人の気配はますます薄れ、自然が牙を剥くような険しい風景へと変わっていった。海から吹き上げる風は冷たく、切り立った断崖と鬱蒼とした原生林が、行く手を阻むように迫ってくる。
やがて俺たちは、知床の原生林の入り口にある駐車場に車を停めた。
空は薄曇りで、木々の間からはひんやりとした湿った空気が漂ってくる。
「……なぁ、せっかくだし、もう少し先まで歩こうぜ」
シバが、凝り固まった体をほぐしながら遊歩道の奥を指差した。外の冷たい空気を吸いたかった俺は、「そうだな」と同意して歩き出した。
だが、遊歩道の入り口に差し掛かった途端、俺たちの足はピタリと止まった。
目の前に、色褪せた、しかしやけに生々しい警告文が書かれた看板が立っていたのだ。
『ヒグマ出没注意。この先、クマの生息域です。引き返す勇気を持ってください』
爪で引っ掻かれたような傷跡が残るその看板を見て、背筋に冷たい汗が伝う。本州の山で見る「クマ注意」とは次元が違う。ここは正真正銘、彼らの領域なのだ。
「……引き返す勇気、か」
シバが引きつった笑いを浮かべる。
「ここまで来て引き返せるかよ。俺たちには進む勇気がある」
軽口を叩きながらも、二人の足取りは明らかに慎重になった。
鬱蒼とした木々に囲まれた一本道を進む。足元の落ち葉を踏む音だけが、やけに大きく響く。周囲は不気味なほど静まり返っていた。
ふと、森の奥深くから、奇妙な音が聞こえた。
――ピィィィィッ。
甲高く、どこか悲鳴のようにも聞こえる鳴き声。
「おい、今の……」
「エゾシカの鳴き声だろ。ビビんなよ」
シバはそう言ったが、その声は微かに震えていた。
――ピィィィッ。ガサッ、ガサガサッ。
再び鳴き声が響き、何かが藪をかき分ける音が続いた。それも、一つや二つではない。複数の足音が、森の奥からこちらへ向かって移動しているような気配がする。
ヒグマか、それとも別の何かか。
木々の隙間に目を凝らすと、笹の陰で「何か」が動いた気がした。
獣の臭いと、なぜかあの「花の匂い」が、微かに鼻腔を掠めた。
「……おい、シバ。戻ろう。戻る勇気だ」
「ああ、言われなくても……!」
「速足の勇気」
「振り返らない勇気」
「友を見捨てる勇気」
「何でも、勇気って付けるな!」
俺たちは顔を見合わせ、車のある駐車場へ向かって無我夢中で駆け出した。背後で鳴り響く枝が折れる音と、あの甘い匂いから逃れるために。
俺たちのリーザ・チャチャは西へと針路を取った。太平洋からオホーツク海へと景色が変わりゆく中、ひたすらアクセルを踏み続ける。どこまでも続く海岸道路、見渡す限りの牧草地、本州とはスケールの違う大自然が容赦なく体力を削っていくが、助手席のシバが時折叩き出す「謎のタイムスケジュール」と、車体を包む見えない温もりに背中を押され、俺たちは走り続けた。
そして、たどり着いたのは東北海道の拠点――網走湖オートキャンプ場だった。
「いやあ、やっとまともなキャンプ場に着いたな!」
シバが後部座席の荷物の山から這い出すようにして伸びをした。今夜はしっかりとテントを張る。
根室も知床も、観光地なのに、ほとんど売店がない。めぼしいものは熊の木彫り。仕方なく、網走市内のスーパーで食材と鍋をゲットした。
現在の刑務所にビビりながら傍を通り、博物館の網走刑務所は、閉館時間過ぎでショックだった。
全ては、国道5号の渋滞が悪い。初日に室蘭まで行けたら、1時間半ずつ先まで行けて、釧路湿原も日のあるうちに通過。網走刑務所も入館できただろうに。
俺たちは持参したクッカーでお湯を沸かし、買って来た海鮮の、素朴ながらも温かい鍋を口に運んだ。テントの隙間から見上げる夜空には、街では絶対に拝めないほどの満天の星が広がっていた。
テントはそのままに、シバは運転席に、俺は助手席で車中泊。不思議と助手席のシートが仄かに暖かい。ぬくもりに包まれながら、俺たちは深い眠りへと落ちていった。
弾丸ツアーはもうやめようと心に誓った。
―――――
私の名は、お理佐。この男たちは、なんとも気が急ぐことだ。
道路がきれいだからいいようなものの、私の時代なら海に落っこちておるわね。あ、でも、いちど舗装が無くて、車がくるくる回っていたっけねえ。
――ところで、霧の中も、笹の中も、わたしでは無いからね。!
(続く)




