第3話 室蘭から釧路 助手席の香り (北海道編③)
北海道編③ <牧草地の馬と海鮮デラックス定食>
私の名は、お理佐。やらかしました。
「りさチャま」と、子供の頃の懐かしい呼び名で呼ばれたのに、そうではなく、『リーザ・チャチャ』と乗り物の名を言っただけのようです。
でも、意図せず呼び出したとしても、私を誘惑したのだから、あの男には、責任をとってもらいます。
リーザ・チャチャは軽快なエンジン音を響かせ、室蘭を後にして太平洋沿いの国道を東へと走り出した。
窓の外を流れる景色は、本州とは明らかに違う、海風が吹き抜けるなか、青々とした牧草地がどこまでも続いている。その広大な土地には、所々に馬たちが点在していた。
彼らは、俺たちの車なんてまるで気にも留めず、ひたすらに草を食んでいる。
「なあ、シバ」
「んだよ」
「どうして、後部座席なんだ?」
「どうしてかな?俺は後ろが好きなんだから、いいだろ」
シバはシュラフに包まったまま曖昧に答える。車内の空気はどこか妙な緊張感と、助手席のシートの沈み込みが、なぜかそのまま残っているような気がする。
「見てみろよ。いい感じの景色だぞ」
「うあー、本当だ、サイロが立っている。あの丸いロールはなんだ?」
「北海道だな......」
風に揺れる牧草の海原の向こうで、古びたサイロがぽつんとこちらを見下ろしている。
サラブレッドの群れが、一斉に首を上げて俺たちのリーザ・チャチャを見つめた。その黒い瞳に、少しぞっとした。
「なあ、シバ」
「んだよ」
「お前のその15万円の財布、そろそろ活躍する場面じゃないのか?襟裳岬のあたりで美味いもん食わせろよ」
「バカ言うな!これは北海道全域を生き抜くための防衛資金だ。ジンギスカンは旭川の野口と合流してからって決まっているだろ!」
「ケチ!」
「ケチって言うな!」
笑い声を上げながら、リーザ・チャチャは次なる舞台――襟裳岬へ、アクセルを踏み込んでいった。
「なあ、シバ」
「んだよ」
「おい、あれ……見ろよ」
丘を越えた坂道の先で、風の吹き抜ける駐車場が見渡せた。そのアスファルトの隅に、ぽつんと、一台の車が止まっている。
それは見間違えるはずもない。我が相棒と同じ「青」のダイハツ・リーザだった。
「嘘だろ……?おい、マジかよ」
後部座席のシュラフから顔を出したシバが、目を丸くする。
こんな場所に同じ車がいるなんて、もしかすると……。
「なあ、ちょっと横に並べてみようぜ」
「は?なんでだよ」
「いいから、いいから、もしかしたら向こうも……な?」
「なんだよ、お前スケベだなー」
ニヤニヤしながら、俺はわざわざ向こうのリーザの真横へと、ぴったりと車を横付けした。
運転席のドアを開ければ手が届きそうな距離。俺たちは胸を高鳴らせながらエンジンを切り、そっと隣の窓を覗き込んだ。
だが、スモークフィルムが貼られた窓ガラスの向こうは、まったく中が見えない。
「おい、誰もいねえのか?」
「いや、待て……」
その時だった。
隣のリーザの助手席側のドアが、静かに開いた。
ジーンズの細い脚が見える。野太い声。「そちらは、チャチャですか?俺たちのはただのリーザなんですよ」
「......」
「「お気をつけて」」
リーザを見かけても、決して声をかけないと誓った。
襟裳岬を後にした俺たちは、海岸線を走った。
頭上には初夏の青空が広がり、太陽の光が降り注いでいるというのに、眼下の海面は、幾重にも重なる白い波が立っている。切り立った崖の合間を縫うように伸びる一本道を、リーザ・チャチャはひたすらに東へと進む。
「腹減ったな……もう限界だ」
「この辺、何にもねえけど、さすがに何か食いたいぞ」
しばらく車を走らせると、道路沿いにぽつんと、しかし重厚な存在感を放つ建造物が現れた。景気の良さを表すようなそのドライブインは、真新しい外壁が太陽の光を浴びて輝いていた。ガラス張りの曲面アーチに、パステルカラーのネオン管が張り付いている。
俺たちは少し迷ったが、ピカピカに舗装されただだっ広い駐車場にリーザ・チャチャを滑り込ませた。
中に入ると、磨き上げられた大理石風の床に、天井にはシャンデリア。窓際の席からは太平洋が一望できるようになっている。
俺たちはそろって「海鮮デラックス定食」を注文した。
運ばれてきたのは、舟盛りの刺身に、カニの足が突き出た豪快な味噌汁、豪華な定食だ。
「すげえ……これ絶対うまいやつだろ」
「マジかよ、贅沢すぎやろ……いっただきます!」
身をほぐし、白米と一緒にかき込む。新鮮な魚介の旨味が、体に染み渡る。
「カニだ、カニだ」
「やっぱ、旅のメシはこうだろ」
「カニだ、カニだ」
「だら。生き返ったわ」
豪勢な定食をガツガツ食べながら、さっきの「リーザ」の件を思い出してはニヤニヤと笑い合う。
店を出て、駐車場に停まるリーザ・チャチャのところへ歩み寄る。俺はなぜか助手席へと回り込み、そのドアに手をかけて開けた。後ろに続くシバが、キョトンとした顔で足を止める。
「ん、運転代わるのか?」
「あ、いや別に......やっぱり代わって……」
「お前、さっき、降りるときにも、助手席に回ってドア開けたよな」
「え?そんなことしたか?」
「した」
「覚えてないぞ」
「まあ良いけど、さあ乗った、乗った。釧路までは俺が運転するから」
首をかしげるシバに促されるまま、俺は改めて助手席へと収まった。
やがて日が暮れ、あたりは真っ黒。
「釧路湿原が見えない」
「なんてこった、せっかくここまで走ってきたのに……」
「あきらめて、ドライブインに行こう」
「しゃあねえな、この真っ暗じゃ何も見えん。明日の朝にもう一度来ようぜ」
「だな、明日リベンジしよう」
日が暮れ、周囲が漆黒の闇に包まれる中、ドライブインの片隅にダイハツ・リーザ・チャチャを滑り込ませる。
「昨日の反省を生かして、今夜はちゃんと車内で寝るぞ」
「だな。で、腹減ったな……お昼の定食からずいぶん経つし、なんか食うか」
俺たちは助手席の足元からガスバーナーとコッヘルを引っ張り出し、カチカチと火をつけた。夜風の吹き抜けるドライブインの隅で、お湯が沸くまでのあいだ、カップ麺の蓋をめくる。
「なあ、こんな寒い夜はさ、やっぱり鍋にするのもアリだよな」
湯気を覗き込みながらシバが言う。
「夏だけどな。北海道を舐めていた。野口が、暖房が必要と言ったのを信じて無かったぞ」
「明日、新鮮な具材を買おうぜ」
「ブルジョアは……でも、鍋がないな」
「どこかで買えないかな?」
「どっかにはあるだろう。明日、お店見つけたら寄ろう」
「よっし、今日はこのカップ麺で乾杯だ」
湯気と一緒に立ち上るインスタントの香りを啜りながら、俺たちは冷え切った車内で質素な夕食を済ませた。
「で、布陣はどうする?」
「俺が運転席、お前が助手席な。リクライニングをめいっぱい倒せば、昨日のテントよりは百倍マシだろ」
シバが運転席の背もたれを後ろに倒し、俺は助手席のシートを倒して、寝袋に体を潜り込ませた。
エンジンを切り、外の荒々しい風の音を聞きながら、俺たちは疲労に任せて目を閉じた。どれくらい時間が経っただろうか。外の風は相変わらずビュービューと車体を叩いているのに、車内だけ妙に静まり返っている。
ふと、意識が浮上した。――かすかに、甘い花の匂いがした。
密閉された軽自動車の車内。潮風の匂いならまだしも、まるで手入れされた庭園にでもいるかのような、上品でどこか懐かしい花の香りが鼻腔をくすぐる。
「……なぁ、シバ」
闇の中で、小さく声を落として呟いた。
「……ん、なんだよ、寝かせてくれ……」
運転席から、シバの眠たげな声が返ってくる。
「なんか匂わねえか?ほら、花の……」
シバの気配が、ぴたりと止まった。
「何の匂いだ?俺にはしないな」
さっきまでの気の抜けた声とは違い、現実に引き戻されたような声だった。車内の空気が、わずかに引き締まる。あの東室蘭駅で別れたはずのワンピースの裾が、なぜか脳裏に蘇った。
「なあ……」
シバが、運転席から身じろぎもせずにぽつりと言う。
「地球岬の周りには、ピンクの花が咲いていた。俺たち、いや…」
風がリーザ・チャチャのボディを激しく叩く音だけが、やけに大きく響く。これ以上深掘りするのが怖くて、俺たちはそれ以上言葉を交わすことをやめた。ただ、シートの隙間から漂ってくる柔らかな花の匂いに包まれながら、胸に去来する切なさを抱えたまま、朝をじっと待った。
(続く)




