函館から下北半島 助手席の体験(その2) (北海道編⑬)
北海道編 エピローグ -最後の車中泊-
フェリーは大間の岸壁に着き、俺たちは再びリーザ・チャチャに乗り込んだ。
本州の最北端から、車を南下させる。もう、「霊場・恐山」の看板に引かれることもない。俺たちはまっすぐに南へと向かった。
夕闇が迫る頃、車は陸奥湾に面した野辺地町へとたどり着いた。
「いやぁ、今日のところはこの辺りが限界だな」
「だな……。ずっと車中泊だったし、今日はまともな部屋でぐっすり眠らせてくれ」
旅館の駐車場に、リーザ・チャチャを滑り込ませた。
運良く部屋は空いており、フロントで手続きを済ませる。
「いやあ、助かった。ひさしぶりに、あの狭いシートから解放されてふかふかの布団で眠れるぜ……!」
シバは心底嬉しそうに伸びをして、ロビーの奥へ向かおうとした。だが、車のキーを持ったまま立ち尽くしている俺に気づいて足を止める。
「ん? お前、先に行かないのか?」
「……いや、やっぱり俺はいいや」
「は? なに言ってんだよ。お金が無いなら貸してやるって」
「そうじゃなくてさ……。なんというか、今夜も車で寝るわ」
シバは信じられないものを見るような目で俺を見た。
「おいおい、さっきまで『今日はまともな部屋で寝たい』とか言ってたじゃないか。旅館が取れたのに、なんでまた車中泊なんだよ」
理由なんて、自分でもうまく説明できなかった。
ただ、どこか胸の奥がざわついていて、あのリーザ・チャチャの小さな空間から離れるのが惜しかった。
「いいから、シバはここに泊まってくれよ。俺は、気まぐれだよ、気まぐれ」
あきれ返るシバをよそに、この旅で何度も味わった「車中泊」の締めくくりとして、ひとりで駐車場の片隅に停めたリーザ・チャチャの助手席で夜を明かすことにした。
エンジンを切り、シートをめいっぱい倒して、寝袋に体を潜り込ませる。旅館の中では今頃、シバはふかふかの布団でぐっすりと眠っていることだろう。妙な可笑しさを感じながら、俺は目を閉じた。
夜更け。周囲が静まり返った駐車場の車中で、ふと、あの匂いが戻ってきた。
かすかに、甘い花の匂い。
釧路での夜にも漂ってきた、上品で懐かしい香り。誰もいないはずの暗がりから、ふわりと鼻腔をくすぐる。
恐怖はなかった。ただ、ずっとこの旅の助手席で寄り添ってくれていた小さな気配が、いよいよ別れを惜しんでいるかのような、そんな切なさが胸を満たした。
(……ありがとな)
声には出さず、心の中でそう呟く。
その直後だった。
――ズシリ。
妙にハッキリとした重さが、俺の腰のあたりに乗っかった。
(ん……?)
身じろぎしようとしたが、体が思うように動かない。金縛りとは少し違う、まるで物理的な重みが下半身をしっかりと押さえつけているような感覚。
さらに、その直後。まるで冷たい手のひらのような感触が、俺の胸板のあたりをそっと這った。
「っ……!」
声を出そうとしたが、喉の奥で詰まって音にならない。汗ばんだ肌の上を、指すように冷たい指先がトプン、トプンと心臓の鼓動をなぞるように這いまわる。
(触られている……?)
目を開けたくても瞼が鉛のように重く、どうしても開くことができない。しかし、肌の上に伝わる生々しい質量だけは、はっきりとそこに存在していた。
腰の上に乗っている、確かな重み。それを確かめようと、俺は震える腕を無理やり持ち上げ、その何かを力任せに抱きしめた。
腕の中に、人のような感触があった。抱き締めた瞬間、耳元で掠れたような声が落ちる。
(あ…)
声がした気がした。
「君は誰だ?もしかするとあの娘か?」
その直後、指すように冷たい空気が緩んだ。ひんやりした質感の、どこか湿った、甘い花の匂いがやって来た。
俺の体は、何かに優しく、けれど逃れられないほどの圧倒的な力でしっかりと包み込まれた。
「うっ……!」
頭の芯が痺れるような感覚の中で、喉の奥から別の声が漏れる。包み込む圧力が解かれると、また、ひんやりした質感の甘い花の匂いがやってくる。
暗闇の中で、圧力と冷たさが交互に押し寄せ、思考の輪郭が溶けていく。俺は抱きしめ返す力を強め、全身でその重みを受け止めた。
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「ああ……」
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腰に力を入れ、全身全霊を彼女をぶつけるように深く突き入れた。
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「…あっ……、あ……、もっと…強く......、
…ああ、お…お願い……名前を……呼んで!……」
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「う、う、君なんだね、君なんだね、り、里佐―!!」
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「……ああっ…、呼ばれたわ、私を呼んでくれた……ッ!!
ああああああああああ!……」
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その直後、ひんやりした質感の甘い匂いに、暖かくて濃密な生々しい匂いが混ざり合ってくる。
触れ合う皮膚の境界が激しくかき乱され、彼女の冷気と俺の生気とが凄まじい勢いで混ざり合う。
互いの気の力がうねりを上げて体内を駆け巡り、まるで激しい嵐の渦中にいるかのように巨大なうねりとなって、新たな気となって二人の間を無限に循環しながら沸騰する。
その底知れぬエネルギーの奔流に全身の神経が焼き焦がされそうになりながらも、俺は狂おしくその熱のなかへ魂ごと身を投じた。
「あ、あ、里佐……! おいで一緒に、里佐一緒に、里佐――ッ!!」
沸騰の圧力が限界に達したその時、新たな気は、猛烈なスピードで爆発していった。
それからどれほどの時間が経ったのか。車外が薄明りに覆われ始めたころ、俺はガバッと跳ね起きるように目を覚ました。
俺の腕の中には、もはや誰の気配もなかった。荒い息を整えながら、汗ばんだ額を拭う。静まり返った車内には、昨夜の甘い花の匂いも、凍てつくような気配も一切残っていなかった。ただ、夏の青森の朝のジメッとした空気が漂っているだけだった。
夢だったのか?あまりにも生々しい感触の残像に混乱しながら、俺は自分の寝袋に目を落とした。
――そこにあったのは、冷たい現実だった。どうしようもなく恥ずかしいしみが広がっていた。
もうすぐ、シバがやってくる。俺たちは金沢への帰路をリーザ・チャチャに乗って走り出す。
限界も知らずに、果てしなく広大な北の大地を突き進んだ。俺たちにとっての最高の冒険――北海道の旅は、こうして終わるのだった
不思議な呪縛を心と身体に刻み付けたまま、俺たちは金沢での日常へと戻っていく。ここまで、あの小さな青い車でめぐった俺たちの北海道の旅の記録を聞いてくれてありがとう。
(北海道編 完)
(金沢日常編に、続く)




