金沢の日常① 助手席の教育教本
第1章 -生乾き臭と悪魔のささやき-
日付が変わる直前の夜中の11時。
「やっと、金沢に帰って来た~。さらば北海道、こんにちは、夏の日常」
シバは、後部座席から降りると、ダイハツ・リーザ・チャチャの横で大きく背伸びをした。
助手席のシートには、北海道で買ったお土産――バター飴、北海道限定ビール、熊の木彫り…が積みあがっていた。
リーザ・チャチャという車は、女性向けのお洒落な軽セダンとして一世を風靡したリーザの特別仕様車で、卵型のキュートなフォルムの3ドアのボディカラーはネイビー・ブルー。俺が、街を乗り回すには、小回りのよく効く最適の相棒だ。
また、明日から、バイトに買い物に、知り合いと出かける為に、リーザ・チャチャはフル回転してくれるだろう。それに引き替え、シバはもう電池切れのようだ。
「すまない、もう元気は無い。ボストンバッグだけ降ろして、他の荷物はおいおい取りに行くから、じゃあお休みな!」
シバはそう言い放つと、彼のアパートに入って、パタンと扉を閉めた。
――そうだ、思い出したぞ。シバは、夏の日常の慌ただしい出来事で、結局は最後まで荷物を取りに来れず、俺が熊の木彫りやクッカーを彼のアパートに届けたのだった。あのとき、ドアを開けてでも、彼の荷物を放り込むべきだった。
思い出というものは勝手なもので、年月が経つと都合の良い輪郭だけを残して記憶が溶けていってしまう。だが、ふとした拍子に、濁った水底から片鱗が浮かび上がるように、どうでもいい出来事のディテールが色鮮やかに蘇ることがある。
リーザ・チャチャをフル回転させて駆け抜けた、バイトや買い物、知り合いと出会いと別れの日々。あの不可思議な呪縛さえも俺の日常のなかに溶け込んでいっていた。俺にとっての忘れられない金沢の夏――今度は、その金沢の夏の日常の記録を聞いて欲しい。
◇◇◇
昨日は朝からリーザ・チャチャを走らせ、深夜にようやく金沢のアパートへと辿り着いたから、荷物の整理をする気力すらなく、泥のように眠りこけて――気がつけば正午をまわっていた。
散らかった床には、荷物が転がっている。俺はぼんやりとした頭で起き上がり、空腹をしのぐために、棚から引っ張り出したカップ麺にお湯を注いだ。旅行の余ったカロリーブロックも出して、それを齧りながら、スープをすする。金沢に帰ってきたはずなのに、北の大地と同じメニューになっていることに気が付き、俺は思わず苦笑いした。
食後に、シャワーを浴びる。昨夜はそのまま寝てしまったので、4日ぶりの風呂だ。石鹸の泡立ちが異様に悪いことに少し焦ったが、全身を念入りに洗い流す。冷たいシャワーで頭を冷やし、精神を無理やり日常へと引き戻していった。
風呂から上がり、脱いだ服をまとめて、洗濯機の蓋を開け、放り込もうとした、その時だった。
「……ん?」
脱水ドラムの中に、布の塊が丸まっているのが目に入った。嫌な予感がして手を伸ばし、それを引き抜いてみる。出てきたのは、旅行に出かける前に洗って、そのまま干し忘れていたものだった。
慌てて顔を近づけ、恐る恐るその匂いを嗅いでみた。
「あー……これは、アウトだな」
ほんのりと、雑巾のような、生乾き臭が鼻腔をかすめる。1週間以上も湿気がこもった洗濯機の中に放置されていたのだから当然といえば当然だった。旅の疲れが倍増するような、テンションの下がる発見である。
「まったく、俺は何をやっていたんだか……」
苦笑いをしながらも放置するわけにはいかない。俺は脱いだばかりの衣類と一緒に、その忘れ去られたものを洗濯槽の中に放り込んだ。さらに念のため、棚から漂白剤のボトルを取り出して多めに投入する。この臭いを断ち切るため、水流の強さも「強力」モードに設定し、スイッチを押し込んだ。
カタかタと頼もしく回り始めた洗濯機の音を聞きながら、俺は大きく息をつく。長い旅を終えた俺の、金沢での日常は、こうして漂白剤の匂いに包まれながら、本当の意味で幕を開けたのだった。
家庭教師が始まる前に、俺はキャンパスへと車を走らせていた。
目的地は、学生課の前だ。静まり返った事務室のフロアを抜け、掲示板の前に立つ。
「……あった」
貼り出された進級『可』のリストを上から順に指で追い、自分の学生番号を見つけた瞬間、喉のつかえが降りていくような安堵感が広がった。無事に2年後期、専門課程への切符を手に入れた。
ほっと胸を撫で下ろしながらリーザ・チャチャに戻り、助手席においたカバンに、今日使う家庭教師用のテキストと、自作の対策ノートがあるかを確かめる。そのとき、ノートに挟まれていた一冊の冊子が目に留まった。
バイト先のフランチャイズ塾で配られた『教育教本』だ。俺はなんとなくそのページをめくった。
開いたのは『教育技法 その6 褒めて伸ばす』の項目である。
・生徒の学習意欲を向上させる最も有効なアプローチの一つは、適切な賞賛による承認欲求の充足である。
・課題の達成や望ましい行動が見られた直後に、間髪入れずに賞賛を与えること。
「……なるほどねえ」
よし、と小さく気合を入れてから、隣町にある女子高生の家へと車を走らせた。夏休みは、一コマでも多く稼ぎたいアルバイトの書き入れ時である。
インターホンを鳴らし、案内された部屋で待っていたのは、高校二年生の少女だった。
俺は部屋の真ん中の座卓に、彼女と向かい合わせになるように腰を下ろす。
「よろしくお願いします」
ペコリと頭を下げた彼女の目の前には、教科書と、夏休みの宿題が積んであった。
少し緊張を帯びた横顔に、俺はバッグからシャープペンを取り出しながら、軽く笑ってみせる。
「じゃあ、夏休みの宿題から確認していこうか。どれから手をつける?」
そう促すと、彼女は表情を和らげ、どこか誇らしげに、分厚い問題集の1冊を差し出した。
「あの……先生、これ、チェックしてもらえませんか」
「ん、どれどれ」
受け取った冊子をパラパラとめくった俺は、思わず動きを止めた。
そこにあったのは、ページの隅々まで、途中式と答えが隙間なく埋め尽くされている。しかも、最終ページまで完璧に。
「……おい、これ」
「はい。昨日までに、全部終わらせちゃいました」
彼女は告げる。まだ夏休みが始まったばかりだというのに、数学の課題はすでに一冊すべてが完了していた。
「……全部って、マジかよ」
慌てて他の教科の冊子をめくってみれば、英語や現代文は、カレンダーのスケジュール通りに「二週間分」が綺麗に片付けられていた。うん、これなら模範的なペース配分だ。
しかし、再びあの分厚い数学の問題集に目を落とす。
「他の科目は予定通りなのに……どうして数学だけ全部やっちゃったんだ?」
思わず疑問が口に出た。
彼女は困ったように頬を少し赤らめ、ペンをくるくると指先で回しながら、どこか気恥ずかしそうに視線を泳がせた。
「あの……数学だけは、解いていて面白かったから、つい……」
「面白かったからって……」
「だって、先生に教えてもらうようになってから、数学が得意になったんだもん」
彼女は少し照れくさそうに頬を染めながら、そう言ってふっと息を抜き、俺のほうを向いた。
「……ねえ、先生。頑張ったんだから、褒めて、褒めて」
そう言いながら、彼女は少しだけ体を前に乗り出し、俺の目の前に頭を突き出してきた。
「おいおい……」
(この娘はこんなことするタイプだったかな?)
その仕草に、俺は思わず苦笑を漏らす。だが、その頭を撫でてやると、彼女は嬉しそうに目を細め、誇らしげな笑みを浮かべた。
褒めて伸ばすの教育技法もあるし、まあ今日のところはサービスだ――と、俺は小さく息を吐いた。
彼女からそっと視線を外し、俺は気を取り直して分厚い問題集のページをめくり始めた。
「よし、それじゃあ中身を確認していこうか」
パラパラと鉛筆の跡が残るページを追っていく。基本から応用問題に至るまで、その記述は驚くほど綺麗に整理されていた。
だが、ページの後半、発展問題のエリアに差し掛かったところで、
「ん……ここは惜しいな」
「えっ?」
「ここ、国立大の過去問の改題だろ?この最後の条件の読み違いがある」
俺が言うと、
「嘘……ほんと?」
悔しげに声を上げた彼女は、ガタリと立ち上がった。そのまま俺の背後へと回り込み、俺の肩越しに顔を寄せて問題集を覗き込んでくる。
「どこですか? 私、どこを読み違えてました?」
彼女の髪の毛が俺の頬をかすめ、シャンプーの香りと暖かい息が首筋にかかる。
「先生、どこが間違ってるのですか? どこですか?」
覗き込んでくる彼女の体温が、背中にダイレクトに伝わってくる。背中に押し当てられた柔らかい感触に、ぞくっと気恥ずかしさが走る。俺は思わず息を呑んだ。明らかに、わざととしか思えないゼロ距離の挑発だ。
冷房の利いた部屋なのに、背中でじわりと変な汗が滲んでくる。ここで対応を間違えたら、バイトはクビ、親御さんからの信頼も失墜、何より自分の貞操が危うい。
(おい、近すぎだろ……今日は一体どうしたんだ?)
ぐっと身動きを封じられながらも、平然を装って奥歯を噛み締めて我慢しようとした。だが、彼女の細い息が耳元をくすぐり、甘い香りが鼻腔を突いてくるにつれて、理性の壁が音を立てて削られていく。
これ以上が削られたら――もう決壊する。
限界に達した俺は、半身を翻し、彼女の細い腕をきゅっと掴んだ。
「そういうことをして、先生をからかうじゃない!」
捕まえた腕を少しだけ引き上げ、呆れと照れが混じった声で叱りつける。
だが、彼女は怯むどころか、ふっと息を抜いた。そして、あろうことかゆっくりと目を閉じ、ぷるっと唇を突き出してみせる。
「っ……!」
叱られておとなしくなるどころか、さらに挑発のように追撃してくる態度に、俺は言葉を失った。
心臓がうるさいほどの音を立てて肋骨を叩く。目の前には、小刻みに唇を突き出してこちらを誘う教え子の姿がある。
どうするべきか、頭の中で非常警報が鳴り響いているというのに、身体はまともに動いてくれなかった。――いっそ、このままキスしてしまえという悪魔のささやきが、頭をもたげる。
――その時だった、窓ガラスの外がガタガタと激しく鳴り響いた。
彼女がビクリと肩を震わせ、驚いたように目を見開く。家全体が揺れるような室外機の凄まじい地鳴りに、挑発的な表情はどこかへ消え、彼女は思わず自分の両腕を抱きしめた。
「な、なんですか、今の音……外の室外機、すごい変な音がしてます……」
外のベランダから、「ブォオオオ」という低い地鳴りが起き、「ガタガタガタ……!」と室外機が激しく暴れていた。
置き位置をずらすと、エアコンの室外機の振動はピタッと収まった。
――トラブルで雰囲気を削がれたのだろう。彼女からの過激なアプローチは、その後は収まった。
俺は、彼女の宿題のチェックを終えると、「今日はここまで」と、その日の家庭教師を無事終えることができた。
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私の名は、お里佐
明治の昔、函館師範学校で厳格な規律のもと、教壇に立つための作法を叩き込まれた。
あの頃の学び舎は、新時代の気概に満ちて、若者たちが勉学に勤しむ姿こそ国の礎。この男が学問を授ける「家庭教師」なる生業も、知を広める素晴らしいものだと思っていたというのに――。
……目の前で一体何が始まっているのでしょうか?
教え子とは、もっとこう、教師を尊敬し、ありがたい言葉に感激するものではないのか。この小娘は、教える側の男に向かって「ねえ、褒めて」と、あられもない距離まで詰め寄り、あまつさえ唇なぞ突き出して誘惑するなど、常軌を逸している。
男も男だ。小娘のゼロ距離攻撃の前にすっかり魂が抜けて、ただの「男」に成り下がっているではないか。
「……ふん、破廉恥な!」
私の怒りが、機械をあのように暴れさせてしまった。
私には、感情のコントロールが必要ということも分かりました。
しかし、まったく、この男には、教師の技法よりも、色気の対策の補習が必須のようね。
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(続く)




