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婚約破棄で破滅予定の悪役令嬢ですが、赤字領地を黒字にしてみせます  作者: gachapin2223


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第8話 まずは一斤を数えましょう

翌朝、レティシアは開店前のパン屋へ着いた。


空はまだ白く、通りにも人影はまばらだ。町外れのこの一角は、朝の立ち上がりが王都よりずっと遅い。けれどパン屋だけは別で、本来ならこの時間がいちばん忙しいはずだった。


店の戸を開けた途端、温められた窯の熱と、小麦の匂いが押し寄せる。


悪くない香りだ、とレティシアは思った。


少なくとも、腕まで駄目という店の匂いではない。


「また来たのか」


捏ね台の前にいたオットーが、露骨に眉を寄せた。腕まくりした太い腕に粉がついている。すでに仕事は始めていたらしい。


「毎日通うと申し上げました」


レティシアは淡々と答えた。


「今日は帳場を見るだけではなく、実際の数を確認したいのです」


「数ぅ?」


「ええ。材料、焼き上がり数、売れた数、残った数、廃棄した数」


ひとつずつ挙げると、オットーの顔がますます険しくなる。


「そんなもん、いちいち数えてたら仕事になりませんよ」


「数えないまま赤字になっているなら、なおさら必要でしょう」


店の奥から、昨日も見たエルザが顔を出した。栗色の髪をきりりと束ね、腕に籠を抱えている。こちらを見る目は相変わらず警戒気味だが、昨日ほど剥き出しではない。


「お父さん、窯の方」


「ああ」


オットーは舌打ちこそしなかったが、不満を隠さぬまま奥へ戻っていく。


その背を見送りながら、レティシアは店内を見回した。表の陳列棚はまだ空に近い。裏では今日の分の生地が並び始めている。壁際には積まれた小麦袋、木箱、塩壺。そして床の隅、何気なく置かれた籐のかごには、昨日の売れ残りらしい固くなったパンが数個入っていた。


あれが廃棄かごだろう。


昨日から気になっていたものの一つだ。


「お嬢様」


背後から、ややためらいがちな男の声がした。


振り返ると、見慣れない青年が立っていた。


二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。亜麻色に近い髪を短く整え、質素だが清潔な上着を着ている。華やかさはないが、目つきは落ち着いていた。片腕には帳面と木炭筆を抱えている。


「どなた?」


「ルカと申します」


青年は少しぎこちなく一礼した。


「伯父様が?」


「はい。ゲオルク様から、お嬢様のお手伝いをするよう申しつかりまして」


なるほど、とレティシアは思う。


補佐役か、見張り役か。その両方かもしれない。


ゲオルクなら、年若い姪を一人で現場へ通わせるより、“気の利く手伝い”をつける方が自然に見えると判断するだろう。そして同時に、その手足を通してこちらの動きを把握もできる。


「何のお仕事を?」


「もともとは屋敷の書庫と、財務方の雑用を少し。領内の店舗資料をまとめる手伝いもしています」


財務方。


レティシアはその単語を胸の内に留めた。


ただの下働きではない。数字に触れている人間だ。


「字は書けるのね」


「一応は」


「ではちょうどよかったわ」


レティシアは即座に言った。


「今日から、あなたにも数えていただきます」


ルカが一瞬だけ目を瞬かせる。


「数える、とは」


「まずは一斤を数えましょう」


そう言って、レティシアは小さく息を吸った。


「感覚のお話は、その後です」


オットーが戻ってきたのは、その直後だった。


「何をごちゃごちゃと――」


「親方」


レティシアは振り向いた。


「今日の分、焼く予定のパンは何種類で、それぞれ何個ですか」


「は?」


「決めていらっしゃるのでしょう」


「そりゃあ大まかにはな」


「大まか、では困ります」


オットーの眉間に皺が深くなる。


「お嬢様は、うちに焼き方を教えに来たわけじゃないんでしょう」


「ええ。ですから、焼き方には口を出しません」


レティシアは平坦に答えた。


「ただ、何をいくつ焼いたかは確認します」


「そんなもん毎日ちょっとずつ違うんだ。天気でも客足でも変わる」


「それを数字にするのです」


ぴしゃりと言うと、オットーはあからさまに顔をしかめた。


だがレティシアは構わず、持ってきた革手帖を机へ置き、ルカに向き直る。


「紙を。欄を作ります」


「欄、ですか」


「品目、仕込み量、焼き上がり数、売価、売れ残り、廃棄」


ルカは戸惑いながらも、抱えていた帳面を開いた。紙質は粗いが書くには十分だ。彼は木炭筆を動かし、言われた通りに欄を引き始める。


その手つきは意外と慣れていた。


「……あなた、普段から帳面をつけているのね」


「見よう見まねです。正式なものじゃありませんが」


「結構よ。今日は正式さより速さが要るわ」


オットーは呆れたように鼻を鳴らした。


「そんな子どもの算術遊びで、店がどうにかなるもんですか」


「どうにもならないかどうかは、数えてから決めましょう」


エルザが、籠を抱えたまま口を挟む。


「売れた数なんて、だいたい見ればわかります」


「“だいたい”が赤字を隠します」


レティシアはきっぱり言った。


「見ればわかる。前からこうだった。たぶん足りる。そういう言葉のあいだに、無駄は潜みます」


その言い方が少し強かったのか、エルザはむっとした顔になった。だが言い返す前に、ルカが帳面から顔を上げる。


「……その数え方、前から雑だったんです」


ぽつりと落ちた一言に、空気が止まった。


レティシアはルカを見る。


「前から?」


青年はしまったという顔をしかけたが、すぐに表情を戻した。


「いえ、その……店だけじゃなくて、領内の小口商いって、だいたいそうなんです。売れた分は見るけど、捨てた分とか、ただで渡した分とか、ちゃんと書かないことが多いので」


言い訳のような説明だった。


だが、今レティシアが引っかかったのは別のところだ。


前から雑だった。


まるで、こういう穴を以前から見てきた者の口ぶりだった。


「そう」


それだけ返して、レティシアは追及を後に回した。


今はまず店の数字だ。


「では始めましょう。親方、今日使う小麦袋は何袋ですか」


「二袋半だ」


「半端が出るのね」


「毎日ぴったり一袋で済むわけがないでしょう」


「もちろん」


レティシアは頷いた。


「だからこそ、残りを見ます」


小麦袋の口を実際に確かめる。開封済みの袋は三つ。うち一つは半端、二つは新しい。袋の目方表示は粗いが、まるごと計れないなら使い切りの前後差分で見るしかない。


「ルカ、袋ごとに印をつけて」


「はい」


「一番新しいものを一、次を二、半端を三」


「……お嬢様」


オットーが半ば呆れたように言った。


「そんな細かいことをやってる暇があるなら、売り子でもした方がましです」


「細かいことをしないまま赤字なのでしょう?」


同じ返しをすると、さすがにオットーも黙った。


その間に、レティシアは店の流れをひとつずつ止めずに観察していく。


黒パンは何個成形したか。


丸パンは何個か。


焼き菓子は何枚分の生地か。


売価は札と一致しているか。


昨日の売れ残りは何個で、どう処理するのか。


「これは?」


廃棄かごを指すと、エルザが少しためらってから答えた。


「昨日の残りです。固くなったから、もう店には出しません」


「家で食べるの?」


「そういう時もあるし、近所にただであげる時もあります」


「それは帳面にありますか」


「……そんなの、書きません」


やはり、とレティシアは思う。


ただで配るものは、記録されない。善意、付き合い、もったいないから。理由はいくらでもつく。だが記録されない以上、それは“なかったこと”になる。


「今日から書きます」


「えっ」


「ただで配ったなら、その数を。家で食べたなら、それも。廃棄したなら廃棄で」


「そんなの、細かすぎます」


「赤字に細かすぎることはありません」


冷たく聞こえたかもしれない。


けれど、ここは曖昧にできなかった。


誰も気にしていなかった当たり前の無駄こそ、あとで“仕方のないもの”として積み上がる。


昼近くになる頃には、オットーもエルザも、そしてルカも否応なくこの作業に巻き込まれていた。


ルカは帳面係として意外に有能だった。レティシアが口頭で指示した項目をすぐ表にし、数字の横へ簡単な印までつける。小麦袋の開封順、生地の仕込み、焼き上がり数。粉にまみれながらも、彼の帳面は崩れない。


その帳面を見て、レティシアはふと思う。


きれいに整えられすぎた侯爵家の帳簿とは違う。


こちらは粉がつき、指で擦れ、数字の脇に慌てて引いた線が残っている。けれどだからこそ、人が実際に動いた跡が見える。


「丸パン、二十二」


オットーがぶっきらぼうに言う。


「黒パン、十八。小さい食事パン、三十六」


「焼き菓子は」


「十四枚だ」


「昨日より少ないのね」


「砂糖が足りねえ」


その言葉に、レティシアの視線が動く。


「資料では、菓子用の材料費は先週も大きくは変わっていなかったけれど」


オットーはむっとした顔で肩を怒らせた。


「帳面がそうでも、足りないもんは足りねえんですよ」


やはり現場の実感と資料が噛み合わない。


ルカがその横で、木炭筆を止めずに小さく言った。


「前も、そういうことありました」


「前も?」


今度は、レティシアは見逃さなかった。


ルカは一拍遅れて、自分が口を滑らせたことに気づいたらしい。


「……いえ、他の店でも、です」


逃がした、と思う。


だが今は詰めない。無理に問いただせば口を閉ざすだろう。


「そう」


レティシアはそれ以上触れず、目の前の数字へ戻った。


昼の販売が始まると、さらに“当たり前の無駄”が形になった。


値札が曖昧で、客によって少しおまけする。


端の欠けたものは、なんとなく安くする。


顔なじみにはつい一つ余計に渡す。


小さい食事パンは午前中によく動くのに、大きい丸パンは午後まで残る。


それでも焼き数は毎日だいたい同じ。


誰かが悪意を持ってやっているわけではない。


むしろ、皆が善意と慣習でやっている。


だからこそ厄介なのだ。


善意は帳面を合わせてくれない。


慣習は、損を損だと認めたがらない。


夕方近く、店を閉める前にレティシアは一日の記録を見直した。


ルカの帳面は、すでに粉まみれだった。端には指の跡がつき、木炭が少し滲んでいる。だが、今日一日の“見えなかったもの”が確かにそこへ残っていた。


「小麦の使用量と、焼き上がりの数が少し合わないわね」


レティシアが言うと、オットーが腕を組む。


「そんなもん、こぼれる分もある」


「ええ、多少は」


だが“多少”にしてはぶれがある。


しかも、廃棄かごに入った数と、売れ残りの申告数にも差がある。昼のうちに近所へ渡した分、職人見習いが持ち帰った端切れ、試食扱いになったもの。どれも単体なら小さい。だが全部合わせれば無視できない。


「……見えるでしょう」


レティシアは静かに帳面を指した。


「今まで“仕方がない”で終わっていたものが」


エルザが覗き込み、少しだけ顔を曇らせる。


「こんなに、あるんだ……」


「数字にすると、初めて多さがわかるのです」


ルカは何も言わず帳面を見ていた。粉のついた横顔は若く、しかし妙に醒めた目をしている。


「お嬢様」


彼が低く呼ぶ。


「はい」


「このやり方、ずっと続けるんですか」


「ええ。少なくとも、傾向が見えるまでは」


「……そうですか」


その答え方には、驚きと、ほんの少しだけ別の感情が混じっていた。安堵か、警戒か、まだわからない。


ただ一つ言えるのは、彼が“こういう穴”にまるで見覚えがない人間の顔をしていないことだった。


オットーはまだ不満げではあったが、完全には否定しきれない顔になっている。今日一日、自分の店でどれだけ曖昧に流していたものがあるか、職人としても見えてしまったのだろう。


「明日もやります」


レティシアは言った。


「そして明日は、売れた時間帯も記録します」


「まだ増やすのか」


オットーのうんざりした声に、レティシアは少しだけ口元を和らげた。


「赤字を減らすには、まず無駄を見つけることですもの」


店を出る頃には、空は夕焼けに染まり始めていた。


手元には、粉まみれの帳面。背後には、半分空の陳列棚と、まだ少し残った廃棄かご。小麦袋の口には、ルカがつけた小さな印。


たった一日だ。


けれど、それだけで見えたものがある。


この店の赤字は、感覚だけで語られてきた。


だから誰も、本当には掴めなかった。


売れない。厳しい。仕方がない。昔からこうだ。


そういう言葉の下で、無駄はずっと“空気”のまま積み上がっていたのだ。


レティシアは馬車へ乗り込む前に、帳面の端へ短く書きつけた。


廃棄数と生産数にズレあり。無料配布・持ち帰り・端数処理が未記録。小麦使用量も要再確認。


その下へ、さらに一行。


ルカは以前からこの手の穴を見ていた可能性あり。


帳簿は嘘をつく。


だが、現場で生まれる無駄は、数えさえすれば逃げきれない。


まずは一斤。


その一つを数えるところから、レティシアの反撃は確かに始まっていた。


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